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勝手につづる世界史。
フランスの歴史に続き、今度は意表をついてスラヴ民族です。

日本人にとって、最もなじみの薄いヨーロッパと言って良いでしょうか?。
バルカン半島、かつての「ユーゴスラビア」を中心に。

このユーゴスラビアを取り上げた希少な映画。
「アンダーグランド」と共に。
中世末期から二つの大戦、そしてミロシェビッチ政権崩壊までを取り上げます。

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ただしスラヴ系諸国は、ドイツ・フランスなどのように、覇権を拡大した歴史を持たず。
それどころか逆に、ほとんど常に、「支配され続けた」というのが現状で。

「戦争こそが人類の歴史」。そして「勝者の歴史」という観点から考えれば。
その点ではスラヴ民族は、歴史の表舞台には決して登らない、登ったことの無い民族と言え。

この作文でも、スラヴ民族そのものではなく。
スラヴ民族に影響を与えた、周辺諸国の話題の中心となります。

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(このページはまだ未完成で、写真も無いし校正も行っておりません。あしからず。)

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目次

T.プロローグ

U.「植民地」という言葉の意味・・・。

V.調べるほどに分からなくなる、「ドイツ」という言葉の定義。

W.おさらい。カロリング朝期からハプスブルク家登場まで。

X.ハプスブルク家が登場すると。

Y.「善と悪」、「勝者と敗者」、「支配者と被支配者」。正義はどこにあるのか?

Z.支配するドイツ民族、支配されるスラヴ民族。

[.植民地政策。

\.結論。

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プロローグ

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第二次世界大戦の「原因は?」と聞かれたら、皆さんはどう答えますか?

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やはり枢軸側諸国が思考の中心になりますが。民族対立、政治思想対立、資源争奪、植民地問題等等。
色々考えられますね。

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まずそもそも論として。ドイツが開戦しなければ、イタリア・日本が全面戦争に突入する確立は低かったことを前提に据えると。(あくまで仮定として)
当然今度はおのずと、「ドイツの開戦原因」が焦点になり。

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じゃあドイツの開戦原因は?と考えると。
ユダヤ人問題などの、民族対立・宗教対立も挙げられますが。
少し調べれば、これらは国民を啓発する手段の一つであることが分かり。直接的原因とは言えない事が分かります。

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領土的野心を考えると、二つに分けて考えることができ。
一つは植民地支配・割譲、もう一つは本国(イギリス・フランスなどの本土)の征服で。
実は前者、つまり植民地問題が、今回のテーマ。バルカン半島・スラヴ民族問題に直結します。

では後者はというと。フランスに対しては定かでありませんが、実のところヒトラーは。
少なくともイギリスに対する領土的野心は、もともと低くかったと言われています。

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理由としては。
フランス等、いわゆる「列強諸国」は、元々相応の底力を持っており。
占領コストに対する対価、つまり搾取の度合いが低いことが、絶対的条件として挙げられるからです。

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確かにフランスなど先進国に徴税を科せば、途上国の比ではない利益が見込めますが。
占領を恒久的にするには、大変なコストを要するからです。

もちろん異論もありますが、フランスに対する無条件降伏調印に、第一次大戦と同じ場所を選ぶなど。
どちらかと言えば、列強本国に対する侵略は、政治的パフォーマンスを目的としていた部分がうかがえます。

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方の「植民地」問題こそが今回のテーマです。

いわゆる、「世に言う」植民地で考えると。ほとんどの人が、「ドイツの植民地って?」と首を傾げるでしょう。
作者もそうでした。
ウィキペディアで調べると、ナミビア、ルワンダ、カメルーン、マーシャル諸島等々だそうです。

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ドイツは当然、欧州域内において、極めて古くから「強力な覇権国家」であり。
元々の権威をローマ時代より受け継いだ(奪った)イタリア王国周辺。
またはランゴバルド系の様な、ビザンツの恩恵国等を除けば。ヨーロッパ地において最も早くから発展を遂げ。

最も早くから、今で言う「列強」へと「のし上がった」と言えるでしょう。作者の知る限り。

「西欧」の枠組みが決まったカロリング朝崩壊以後では、最も早い覇権国家(帝国)だったと思います。

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作者の解釈として、フランスもイギリスもそうですが。
外敵からの攻撃にさらされると、結束力が強まる傾向があるので。
その点ドイツは、アッテラの西進やマジャール人のような、東方民族との戦い(防衛)が激しかったため。結束力が高まったと言えるでしょう。

ローマの覇権が弱まると、おのずとドイツ地はアジアに対する最前線に位置する上。
逆にその後のヴァイキングが猛威を振るった、暗黒の時代に至っても。ネーデルラントを挟んで、北欧からの影響を受ける位置にあるからです。

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現代日本人の意識からすると、モンゴル勢力拡大以前の中央アジア(イスラム勢力地方を除く)は。
極端な言い方、「白地」に近いイメージが強く。

ヨーロッパの重心はイギリス・フランスとの意識と併せ。ドイツ地は、「ヨーロッパの奥座敷」的イメージで。
あまり、このような激しい防衛戦争のイメージは無いかと思われます。

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ですがドイツはこのように、早い段階から外敵にさらされており。
これが神聖ローマ帝国成立。

つまり「ドイツ王」を頂点とする、結束力高揚の原動力となったのです。

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「植民地」という言葉の意味・・・。

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今に生きる私たちにとって、「列強」=「植民地」の構図は間違いなく意識の大きな部分を占めており。
その点から逆にさかのぼって考えてみると、ドイツの持つ特別性が分かるかと思います。

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つまり、ろくな植民地を持っていない(悪い言葉ですが)のに、強力な帝国を築いたからです。

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もちろん、先ほどから述べている「神聖ローマ帝国」。これは、絶頂期「オットー」時代以外においては。
「帝国」と言っても、そもそも「国家としての体」を成しておらず。

さっきから覇権国家と称していますが、その点では。
近代政治学で言うところの「国家」の意味とは、異なると言えるでしょうが。

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もちろん、更に言えば。物語によく出てくるような。
平時は「まとまり」が無くとも、「外敵にさらされると一致団結するのがドイツ民族なのだ」。

等と言った「精神論」もありませんので、あしからず・・・。

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先ほど「世に言う」を強調しましたが。
つまりドイツは、「いわゆる」植民地以外の部分で、「強力な覇権」を築いたのではないか?。
これこそが今回のテーマです。

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植民地に限らず、欧州域内においての覇権争いは重要で。
例えば百年戦争に敗北したイングランドは、その後長い間低迷を余儀なくされたし。
(一般的には勝敗は付かないとされるし、今日の国境からすれば、ただ単にフランスが領土を回復したようにみえますが。その後の両国の勢力と。そもそもイングランド王ノルマンディー公の「ノルマンディ地方」をイングランド領としたときの「領土縮小」等から考えて。)

無敵艦隊が敗れたスペインしかり。
前後しますが、逆にブルゴーニュ公国義勇戦争敗北の英国しかりです。

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しかして中世中期を過ぎ。いわゆる「大航海時代」がたけなわになると。
植民地から吸い上げた、莫大な富が国勢を支配するようになり。

大英帝国、フランス王国、オランダ、スペイン・ポルトガル等が強力な覇権を確立するようになり。
列強の座を揺るぎないものとしてゆきます。

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この事こそが、他の列強。つまりフランス、オランダ、イギリス、スペイン等と。
一線を画す「特別な存在感」を決定付けている。

結論を先に提示してしまうと、これがこの文書の焦点となっています。

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調べるほどに分からなくなる、「ドイツ」という言葉の定義。

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今度は。「ドイツってなに?」、聞かれて、あなたはどう答えますか?
随分と簡単な質問であり、小学生だって答えるでしょう。「ドイツ連邦共和国」と。

でもよくよく考えてみると、この「ドイツ」という言葉。
実を言うと、大変に複雑な定義を有することに気が付きます。

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作者自身も。
まぁ、ドイツにそれ程大きな思い入れは無いし。
あくまで人類史全体の中での、ドイツの趨勢を見たに過ぎませんが・・・・。

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ハッキリ言ってドイツって、民族的に見ても、領土的に見ても。
どこまでがドイツか。そもそも「何がドイツ?」なのかハッキリせず。
「調べれば調べるほど分からなくなる国」。それがドイツなのだ。と、帰結してしまった程です(笑)。

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領土的に言うと、「ドイツ」という定義は。
現在のドイツ連邦の領域と、ほぼ一致するとの見方が大勢を占めますが。

当然。ハプスブルグ家領地も、プロイセンも、ネーデルラントでさえ。広義の「ドイツ」とも言え。

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一方で、「民族」で言うところの「ドイツ」の定義も。およそ現在のドイツ連邦と一致しますが。
先も述べたマジャール人や、ドイツ王支配地域の民族も無関係ではなく。むしろ広義のドイツ民族とも言え。非常に複雑で。

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結論としては、領土的に見ても。民族的に見ても。どこまでドイツなのか?
何がドイツなのか?。「ドイツ」という定義の複雑さは、誰もが認めるものかと思われます。

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おさらい。カロリング朝期からハプスブルク家登場まで。

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カロリング朝(帝国)崩壊後からもう一度おさらいすると。
フランスは、「フランスの歴史」で記したように。

シャンパーニュ伯、トゥールーズ伯、ブルゴーニュ公、ノルマンディー公と言った、公領・伯領に分裂し。
バラバラに別れ。とても「国家」と呼べる状態に陥りますが。

ドイツはマジャール人が侵入した事により結束し。
ドイツ民族の意識は高揚してゆきます。

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更には。カロリング朝衰退と前後して(衰退の原因でもある)。
ドイツに限らず西欧諸国は、ノルマン人の襲撃に。そのほとんどの国々が「壊滅的打撃」を被るようになります。
いわゆるヴァイキング襲来です。

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その後フランスは、イギリス(ノルマンディー王国)との戦い等の影響により。
フランス人としてのアイデンティティを高め。「統一国家フランス」への歩みを始め、ブルボン王朝に至って絶頂期を迎えることとなりますが。

一方のドイツは。
中世初期から統一国家の体裁を整えたにも関わらず。

11世紀から始まる「叙任権闘争」により、皇帝権が衰微し。逆に聖職者が世俗支配を握るようになると。
教皇領が乱立するようになり、ドイツはバラバラに空中分解し、内戦状態へと至ってしまい。
三十年戦争収束までの、六百年もの間。断続的に起こる、内戦状態にさらされる事となります。

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「皇帝支配」と「教皇支配」。どちらが良いのか?の、パラドクスは。中世時代から永遠のテーマですが。

皇帝権を世俗権力に絞れば。
それはほとんど「大統領」に意味的には一致し。(ロバート・コヘイン「覇権安定論」)

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政教分離が確立した現在では議論の余地が無いように思えますが。「何と!」。

聖職者支配の論議が無くなった訳ではなく。
現在の欧州連合の概念さえ。サン・ピエールの議論を出発点に頂いており。

確かにもちろん、欧州連合加盟の条件に。「キリスト教」のくだりがあるはずが無いにしろ。
「統一意思」の精神に、いまだ大きな影響を持っており。

例えば「トルコが加盟できない原因」との揶揄が絶えないのも、また一つの現状なのです。
(もちろん、単なる揶揄と捉えることも可能ですが。)

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しかし中世中期から「国境」の概念が鮮明になり。
同時に、「国益」の概念が住民に芽生え始めると、「皇帝支配」と「教皇支配」の違いは明確なものとなってゆき。

人口を減少させるほどの大虐殺を起こした、三十年戦争に至って。
「教皇支配」、「聖界諸侯の覇権」の合理性はほとんど失われて行きます・・・。

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残念ながら、「神様の教え」だけでは戦争抑止は図れない。
むしろ宗教勢力が世俗権力闘争を生み出す土壌になっている。という事実が明確になってしまった訳です。

こうして、悲惨な内戦状態へ向かうドイツ。ほぼ同時期に成立し、その後大発展を遂げるボヘミア王国。

そしてこの地域は。
ハプスブルク家の登場により。ドイツ民族とスラヴ民族との関係が浮き彫りになって行きます。

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ハプスブルク家が登場すると。

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ハプスブルク家が登場すると。

否。その前のルクセンブルク家代に、「プラハ」が神聖ローマ帝国首都とされると。
(まぁ前記どおり、元々神聖ローマ帝国という国があったわけではないので。首都といっても、現代の意味とは異なりますが。)
プラハやベオグラード等、スラヴ系民族の多いこの地域は。

一躍スターダム。東方防衛の辺境地から、ヨーロッパの中心地へと急成長を遂げます・・・。

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さてこの辺で。
「そもそも「スラヴ」って?」に軽く触れておきます。
具体的な範囲や、遺伝子解析は。ネットを調べると、非常に詳しい事が解るので。ぜひ調べてみてください。

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実はチェコ・スロバキアの「スロバキア」、ユーゴ・スラビアの「スラビア」等は、スラヴ人の「スラヴ」と語源が同じです。
スラヴ人の多い、これら現在の東欧地域は。「スラヴ」の意味を持つ地名が多く存在するのです。

また、改めて調べてみて・・・。

「抑圧され続けたスラヴ民族」のイメージを、作者自身持っていましたが。
「スレーヴ」が奴隷の意味を持ち、更にスラヴと語源を同じくすることに、改めて驚いたしだいです。

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話を戻しましょう。

ボヘミア王国がヨーロッパ屈指の大国へと成長すると。この後、この地は。
その発展と呼応するかのように、極めて重要な政治的、軍事的、経済的。事件、事象を重ねる事となっていきます。

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とりわけ最も特筆すべきが、ヨーロッパ全域。ヨーロッパ人全体に影響を与える事件。
オスマン帝国との攻防戦と言えるでしょう。

もし。歴史に「もし」はありませんが。
この時のこの地の動向しだいでは、現在のイスラム勢力とキリスト教勢力の分布が。全く異なっていたかも知れません。

イスタンブルに留まらず。
ベオグラードからドナウ・ヴルタヴァ(モルダウ)川流域の多くの地域が、今なおイスラム世界でいたかも知れませんよね。
ドイツを境に、東欧全体がイスラム世界になっていたかもです。

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そして。
前記の「奴隷」という言葉の語源とは別ですが。
プラハの春と称される、煌びやかな宮廷文化。銀貿易による欧州最高峰の経済都市を謳歌する一方。
ドイツ民族。ドイツ支配者による「階層社会」が形成されると。スラヴ民族の諸都市はドイツ人貴族によって支配されるようになり。

この文書の本題とも言うべき。
「スラヴ民族受難の歴史」が始まります。

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「善と悪」、「勝者と敗者」、「支配者と被支配者」。正義はどこにあるのか?

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このように。
ヨーロッパ中世史が、中世中期から末期へと移行するとともに。
これらスラヴ民族地域は、多くの歴史的事象を重ねる。ヨーロッパの中心地域となっていきますが。

一方、大航海時代を迎え。もう一方のヨーロッパの「端」。
「辺境」とは言いすぎですが、欧州の重心がフランス・ドイツと考えればやはり「端」と言える。

イングランド王国において強力な求心力が発生すると、その「ヨーロッパの重心」は。
次第に「西方」へと移動して行きます。

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女王エリザベスの登場による、大英帝国の出現です。

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「地球の4/5を支配したヨーロッパ」。

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人類史上、最も大きな事件。最も重要な「歴史」と言えるでしょう。
この文書自身、スラヴ被支配を、「悪のドイツ」的表現を使っていますが。

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人類史において「良い」「悪い」、「善」「悪」は。
漫画に出てくるような「正義と悪」とは違います。

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例えば現代日本を例にとっても。
隣国が軍事勢力を一方的に拡大しているので。「じゃあその隣国が「悪」で、日本は「善」なのか?」と考えれば。

たった百年の短い歴史だけ見ても。

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この隣国と日本のどちらが「善」で、どちらが「悪」だ。
などと言うのは、「不毛な議論」である事は自明の理ですね。

むしろ国民に対しての歴史認識の啓発を怠り、現在起こっていることのみの「問題提起」に終始している日本こそ間違い。

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つまり物事は、「原因」があって「結果」があるのに、現在起こっている事象の原因。

七十年前に起こった「原因」を考えずに、今の隣国の国民感情のみを「問題だ」「国際秩序だ」と訴える。
日本の方にこそ原因の多くがあるのでは?と、客観的に見れば期帰結します。

もちろんここで述べている隣国とは中国ですが。

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善悪は別問題。
むしろ勝者、つまり支配者、もっと言えば。より多くを殺した勝者こそが、最終的「正統者」。
「正しい行い」という事は、「善行」の同意であり。つまり勝てば官軍。

即ち、勝者こそが「正義」。となってしまう。

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「正義」×「人殺し」=「善行」×「勝利」?

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皮肉を込めて。
この「勝者の三段論法」こそが、「人類の歴史」を「人類の歴史は戦争の歴史」と置き換える。
方程式として成立させている最大原因、と言えるでしょう。

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支配するドイツ民族、支配されるスラヴ民族。

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大航海時代を向かえ。
大英帝国やフランス王国、スペイン・ポルトガル等は。植民地拡大という大きな「国益」を得て。

この「国益」という意識が、「統一国家」というアイデンティティの高揚を促し。
世界各地の植民地から吸い上げた莫大な利益が、「政府」としての組織を繁栄させ。

政府の繁栄が、さらに、そこに住む市民のアイデンティティの高まりに拍車をかける。
つまり相乗効果を生み出し。

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古代世界のローマ帝国、中世のカロリング帝国以降途絶えていた。
ヨーロッパ地における「帝国」の復活を実現しました。

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日本人にとっては・・・。

日本の場合、幕府と呼ばれる、中央集権とも封建制度とも。どっちとも言えない「ゆるい政府組織」の体制維持が続いたため。
このヨーロッパ諸国のアイデンティティ、後に「ナショナリズム」と呼ばれる。

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この意識・精神を理解するのは難しいと思います。

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非常に噛み砕いた言い方をすれば。
「外敵に利害を損なわれる心配の無かった日本」。

だからこそ民族意識も高まらなかったし、当然逆に「国家」と言う概念も育たなかったと言えるでしょう。

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絶頂期を迎えた大英帝国、ブルボン王朝フランス王国。
軍事的にも変革が進み、それまで国王(もしくは公爵・伯爵など)の所有物だった「軍隊」が。

「国民軍」という意識に変革して行き。

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そこに住む「住人」、または「市民」の意識も同じく変革が進み。
悪い言い方、「領主の所有物」に過ぎなかった「領民」が。

フランスやイギリスの、「国民」という意識、位置付けに変わっていきました・・・。

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一方ドイツは・・・。

叙任権闘争から始まるドイツの内乱は、「国家としてのドイツ」という体を完全に消滅させ。
わずかに残った政府組織としての「神聖ローマ帝国皇室」も、完全な形式上の存在と化し。
神聖ローマ帝国皇帝位も同様に、完全な「名誉職」となっていきました。

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バイエルン公、ルクセンブルク公、ブルゴーニュ伯等々。
大小さまざまな公領・伯領に分裂し、王権・皇帝権が全く及ばない。

極めて強い「封建社会」を形成していったのです。

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元々ヨーロッパ地は、封建社会の強い地域が多いのですが。中でもドイツは極めてその傾向が強い上、時間的に見ても。

中世中期以降、近代に至るまでの非常に長い間、封建体制を続けた。
欧州屈指の封建社会と言えるでしょう。

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しかしこのように、体制の変革が遅れ。
「旧体制の維持」が続いたドイツも、「国力」はフランスやイギリスと劣っておらず。

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「じゃあ植民地から吸い上げずに、その国力をどこから捻出していたのか?。」

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つまり、この「素朴な疑問」の答えが。
このスラヴ民族地域にある、という事なのです。

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植民地政策。

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こう言い切るには語弊があるかも知れませんが。
例えばプラハ・ボヘミア王国を発展させたのは「銀」ですし。ザルツブルクでは「塩」です。

ベルリンは比較的新しい都市ですし、前記通り「どこがドイツなのか?」と言う曖昧さはあるにしろ。
もちろんドイツ本土が生み出す経済的生産量も、極めて高いことは確かです。

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しかして、大英帝国等のように、世界各地から搾取を続ける莫大な「富」と、ドイツ本国一国の生産量が比較できる筈も無く。
二十世紀初頭に至って、ベルリンを世界第三位の巨大都市を繁栄させた「富」は。

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スラヴ人地域、現在の東欧諸国からの搾取以外、他に無いのが事実なのです・・・。

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「搾取」という言葉の定義は難しく。
ドイツの東欧に対する事象に対して使って良いかは微妙ですが。

「支配する者」が被支配地域に使うとしたら、用法は間違いでは無いはずです。

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では逆に、この用法に、現代世界の私たちが「違和感」を覚えるのは何故か?

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実はご存知の通り。
ドイツが東欧に行ってきた「仕打ち」とは、比べ物にならないほど。
イギリス・フランスなどが、世界の植民地住民に行ってきた「仕打ち」がひどいものだったからに他ならないでしょう。

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確かにハッキリ言って、植民地住民に対する列強諸国の人々の意識は辛らつで。その対応は「悲惨」を極めました。
「裸で暮らす原住民」、「文明を持たない野蛮人」、「言葉が通じない動物」、「キリスト教を信じない悪魔」。

ハッキリ言って動物扱いでした・・・。

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これら列強が行ってきた「搾取」から比べれば、ドイツ人のスラブ人に対する「仕打ち」は「搾取と呼べるほどの物ではない?」。
これが違和感の原因でしょう。

つまり、「搾取」=「非人道行為」のイメージからということです。

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結論。

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いよいよ結論です。

イギリスやフランスが、植民地住民に対して行ってきた仕打ちから比べれば。
ドイツの仕打ちは「まし」かも知れません。

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しかして。支配されるスラヴ人の民族意識は十九世紀後半から急激に高まりを見せ。
二十世紀に入ると、いよいよ「一触即発」の様相を呈するようになっていきます。

「世界の火薬庫」と揶揄されたのは有名ですね。

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つまり、とうとう、ドイツがスラヴ民族を「抑えきれなく」なって行ったのです・・・・。

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スラヴ民族が激発する約百年前、民族紛争のお手本となるような事件が起こりました。
ナポレオン帝国に対する、スペイン独立運動です。

この時はスペイン同様、直轄地ではないにしろ。
スペイン同様、ドイツも東欧もフランスの支配下に入っていましたが。弾けたのはスラヴではなくスペインでした。

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大げさな言い方、スペインは人類史における「民族独立運動」の口火を切った、というかたちになり。(市民革命と民族対立を分けて考えて)
つまりは、スラヴ民族の「先輩」という事になるでしょうか?。

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ウイーン体制後も、ドイツの支配は続きますが。「考えてもみれば」。

スラヴ民族に対するドイツ支配の歴史は大変に長く。
「ポッと出」の、ナポレオン帝国の支配歴史とは比べ物になりません。

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つまり、あまりに長い間支配が続いたため。もはや「ドイツとスラヴはほとんど同化」しており。

もはや「ドイツ」「スラヴ」等と、分けて考える意識そのものが消滅していたのです。
例えば元々は別だったマジャール人(ハンガリー、ルーマニア)のように。

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その点から考えれば。
これまた歴史に「もし」はありませんが。中世末期のハプスブルク家は、専制君主とは言え、大変に「家庭的」と言いましょうか?。

「寛容」な政治体制であり。
ハッキリ言ってスラヴ民族が独立運動を起こす土壌は、ほぼ「微塵も無かった」と言って過言で無いでしょう。

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つまり「ウイーン体制」などと言う、「神経質」でギクシャクした時代がヨーロッパを覆わなければ。
もしかしたらスラヴ人の激発も起こっていなかったのでは?。と思われて仕方ありません、個人的に・・・。

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さておき。
ウイーン体制の「ひずみ」が、どうにも隠し切れなくなり。

民族意識が高まり。
一方で、一向に「危機感に乏しい」ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国。

この地でとうとう。
その後、世界を「地獄」に叩き込む、「二つの世界大戦」が勃発します。

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「二つの」という表現はつまり、第一と第二次大戦とは「ひとつながり」だと。
作者は思うからです。

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冒頭の問題提起の「答え」がここにあります。なぜ第二次世界大戦は起こったのか?。

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つまりドイツの賠償金問題、つまりつまり第一次大戦敗戦が最大原因であり。
そして、その第一次大戦勃発の原因こそがスラヴ人激発。

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確かにフェルディナンド太后暗殺は、原因ではなく引き金に過ぎないかも知れませんが。
スラヴ民族激発に対する緊張は、既にピークに達しており。

要因ではなく、これはもはや「直接的原因」と考えられ。

二つの大戦を「ひとつながり」と仮定すれば。第二次大戦の原因はスラヴ人による「民族意識の激発。
と。作者は帰結しました。

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そんな「こじ付けだ」。
「そんなこと言ったら、前記のスペイン独立さえ原因になってしまうじゃないか?」とも思われますが。

これはつまり「影響力の度合い」と思います。

その点でドイツのスラヴ民族支配の期間は、大変な長い歴史を持ち。

その長い時間の中で「育った巨大な反抗意識」。
これこそが、人類史上最大の悲劇。地獄の世界大戦につながった。

作者はそう考えます。

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近代へ。

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政治思想の一般論を掘り返します。二つの流れをご紹介します。まずは「憲法学」です。

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古典政治学を考え、振り返ってみると、「意外と単純」です。

なんてことはない、「王様一人の意思」=「国政」。だからです。

そんな事はない、議会政治は共和制ローマ(元老院制)からあったし。
帝政ローマは共和制の手本だし、ノルマン・シチリア王国の官僚制度は、近代政治制度の原形を作っていたじゃないか。

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しかし為政者以外の意見・意思を正当化する、「裏づけ」が無かったのですね。

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そこで市民(為政者以外の人間)としては、「王様が勝手な事を一人で決めたのではたまらない」となり。
自らの意見・意思を通すための、「裏づけ」を求めるようになっていきます。

まずは市民、と言うより最初は貴族階級が主体となり、「王様の横暴を抑止しよう」という運動が起こりました。
(最初は税制が主で、「課税同意権」とも呼ばれました。)

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これが13世紀に登場した、世に言う「マグナカルタ」。つまり「憲法」です。

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これが人類史上初の、具現化された「世俗権力上の裏づけ」です。

でもなぜ「裏づけ」が必要なのでしょうか?
つまり、それまでは。国王や宰相等に「意義」を唱えようにも、反論した時点でその人は「反逆者」になってしまうからです。
それが専制主義なのですから仕方ないですね。

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なぜそうなるのでしょう。
理由は簡単です、中世以前は「世俗権力」より「宗教権力」の方が上だったからです。

旧約聖書では当初、「人の上に人を作ってはならない」としていましたが。
ゆわゆる「サムエル記」代に、神の御心のもとに「人間王サウロ」が登場し、その後ダビデを経て「ソロモン王」へとつながっていきました。

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またご存知のように、世界各地には必ずと言って良いほど、様々な「神」が存在し。
また、そのほとんどの場合。その地の王や為政者は、ほとんどの場合、その地で祭られる「神」の権威を帯びています。

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それは「神の預言者」であり、「神の代理人」であり、「神に選ばれし者」であり、「神の子孫」であるからです。
神そのものである場合もあります。

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つまり。一般人など、為政者以外の意見に対して「寛容」や国家もありましたが。
きほん。「国王の意思が神の意思」だったので。それ以外の意見・意思は、すなわち神の意思に反するものだったわけです。

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そして、「一般人の意見を聞くのは無理でも」。「王と言えど、法に従うべし。」という思想が、「憲法」なのです。
マグナカルタはイギリス発祥ですが、ヤーベ神、特にアブにハム信仰地域で「法」とは。「神の意思」=「神」だったからでしょう。

法による横暴を抑止するには、法をもってすべし。(作者論)です。

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国政における争点序列の相対性を無視し続け、先進国ダントツの「一千兆円債務」を重ね。
(アメリカの債務も膨大だが、ブルトンウッズ体制維持費から始まる。これは「安全保障費」なので、趣旨が異なる。)
隣国との緊張等で目を逸らさせながら、粛々と増税を進めるどこかの国とは大違いですね。

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政治思想のもう一つの流れです。

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起源的にはプラトンの「哲人王」でさえ、この思想に言及しているので。
ある意味前記の「大憲章(マグナカルタ)」より早いのですが。その姿が現れたのは、近代なので。大分後になります。

この頃には憲法主義は、権利請願、ピューリタン革命を経ていて。
趣旨も、王に対する貴族の「権限」から。人権などが中心になり。対象が貴族から一般人に移ったため。

いわゆる「法の一般原則」から独立した、「憲法」へと育ち、既に運用されていました。

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そしてもう一つの流れが「民主主義」です。

人類史は即ち「少数による多数支配」でもあったのですが。
では、「なぜ強い筈の多数が少数に勝らないのか?」このパラドクスの本質を解明ようというのがこの流れです。
(聞いた事無いので作者持論かも)

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この流れが具現化するのが遅れたのは、理由があります。
「憲法」は「法」。つまり存在そのものが神の権威を帯びているのに対し、民主主義は。その主体。

つまり神の代理人たる、「王」そのものの権威を失墜させ。「その権力を分散させよう」という趣旨だからです。

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つまり。「王」が「神」から、「人間」へと変化した、近代に至るまで具現化するのが不可能だったのです。

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ただしその初期においては、時代背景がそもそも「封建主義」だったため。
いわゆるところの「リベラリズム(民政)」とは程遠く、むしろ憲法主義と「かぶる」部分の多い。

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「国王権力の制限、王政の指針。」つまり「王様に対する国民の、「お説教」」だったのですね(笑)。

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憲法主義が、「内政」を主題に置いているのに対し。
民主主義の流れは当初は、以上の理由により、「外交」。つまり「国際法」の様相を呈しており。

発足当初の呼び名も、「民主主義」ではなく「共和主義」と呼ばれました。

この「国際法」の概念は、前記のサン・ピエール、ホッブス、スピノーザ、グロチウス等によって提起されていきます。

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時は既に18世紀末。

学者の研究は、その時代の「問題点」を研究するので、対策を提起するのはその後。つまり「後手」にまわりがちですが。
世の中にはもっと「反応の遅い」組織があります。

「既存の世俗権利」を帯びた組織。つまり「保守派」です。

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この時代の保守派とは言うまでも無く「王権」「皇帝権」ですが。
この時代に入っても、いまだ「既存の権力を変革させよう」という意思に乏しく。

お隣のフランスで大改革が起こっても、「事無かれ主義」でしのぎ。

「ウイーン体制」によって、一応その場を「取繕う」と。
再び「帝国主義」に専念し始めます。

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国民は既に、「王が神の代理人である」との認識を完全に失っており。
にもかかわらず、世俗支配を続け。例えば遠くの干渉戦争に国費を投じて失敗したり。

つまり「我々と同じ、失敗する「人間」なのになぜ?その「人」が我々を支配し続けるのか?」。と、なり・・・。

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大英帝国「ジョージ五世」、ドイツ帝国「ウィルヘルム二世」、ハプスブルク家「フランツ・フェルディナント」、ロシア帝国「ニコライ二世」。
そして世界の女王たる女王「ヴィクトリア」。

ヨーロッパに残った、これら帝国主義が「最後の春」を謳歌し。
「クリスマスまでには終わるさ」と、安易に始めた第一次大戦により。

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19世紀初頭をもって世界、少なくとも欧州域内の専制勢力は終焉を迎えました。

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そろそろこの節のしめですが。

前記通り、学者の議論は既に先行しており。
時代は前後しますが。18世紀のフランスで、いよいよ共和制が試運転がはじまります・・・。

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共和主義の流れは


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ご存知ウィリアム・ペン、カント、ベンサム等によって提起され。
モンテスキュー等によって「具体的システム」が構築された概念です。

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