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かつての「ユーゴスラビア」を中心に、セイレーンからビウティ、この「融合」ページまで。
当サイトの全体的にピックアップしていますが。

今回もこれにもかかってくる事象の一つと言えますが、「世界の宗教の構造」を紹介します。

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政治制度を書く上で必要性を感じ、「はじめにお読みください」ページで現代社会で発生する「独裁」を取り上げましたが。
同様にやはり、歴史や政治を説明する上の「予備知識」として。独裁と同様に。

「宗教構造」を紹介するは、極めて重要だ。と感じまして、今回に至ったしだいです。

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− 目次 −

T  「ご利益」。それは日本人宗教観念をものがたる最強の言葉。

U  キリスト教の小さな枠組み、「カトリック」と「プロテスタント」。

V  イスラム教の大枠1。正統カリフ制度を擁護する派閥と、そうでない派閥。

W  イスラム教の大枠2。正統カリフ制度を擁護する「シーア」と、そうでない「スンナ」。

X  イスラム教の大枠3。ちなみに。現代世界最大の問題、イスラム国はなぜ?・・・・。

Y  ここでチョッと、解説する「順番」について・・・。

Z  「正教」を理解するには、ビザンツを理解しないと始まらない。

[  広まっていた地域が、「悲劇」の中心地だった正教。

\  さて、いよいよキリスト教「東西教会分裂」です。

]  分裂から300年・・・。

]T ほとんど日本人の知らないディープ・ワールド。

]U キリスト教・イスラム教・ユダヤ教 1

]V キリスト教・イスラム教・ユダヤ教 2

]W キリスト教・イスラム教・ユダヤ教 3

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T 「ご利益」。それは日本人宗教観念をものがたる最強の言葉。

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← 映画「アンダーグラウンド」より。
ベオグラードに初めて、ナチス・ドイツによる空爆が始まったシーン。

十字を描く「クロ」こと、「ペタルポパレ」の奥さん。
(ペタルポレ=主人公「マルコ」の親友の名前)

右肩からなので「正教(オーソドックス・チャーチ)」です。

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日本人は「かたち」にこだわるので。
つまり、例えば「右手から上げる」とか「左足から立ち上がる」とか。なのでこの。キリスト教の「十字を描く」動作を検証しても。

「右肩から」が正教で、「左肩から」がカトリック。
という。「かたち」には興味津々(作者も含め)かと思われますが。元々の意味は解らないそうです。

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日本人はひじょうに宗教意識が薄く。
日本における「二大宗教」とも言える、「神道(しんとう)」と「仏教」でさえ。ほとんど区別されておらず。

悪い言い方、意識・分類も「いい加減」で、一例として「七福神」などは。「神」である「恵比寿」から、仏教の「天部(大黒天や弁財天)」。
果ては中国(道教と関係があるか?は未確認)の「偉い人(寿老人)」まで。文字通り「ゴチャゴチャ」で。

結論から言えば。日本人の宗教 = ご利益 であり。
ご利益さえあれば何でもござれ」なんですね(笑)。

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こんな事を記すと「あぶない奴」的な事になってしまいますが。

「 神 = ご利益 」では悲しい。

と、少しでも感じる方はお読みください。

この場で「啓蒙活動」「宗教批判」をするわけではありません。

世界の多くの人は、この事を承知しているのに。日本人は知らない。

この温度差が、世界と日本のギャップに関係していると、作者は考えています。

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国内宗教でもそんなですから、世界の宗教に対する観念も全く理解していないのが「普通」であり。
唯一「知っている」キリスト教宗派、「カトリック」と「プロテスタント」でも、どのような「位置付け」なのか分らないまま。

「キリスト教は大別すると、カトリックとプロテスタントなのだ」。と、思い込んでいる人がほとんどです。
(例えは違いますが、日本で言えば。「日本の宗教は天台宗と真言宗だ」、というような観念と似ています。)

なのでいくら「フランスはカトリック」とか、ドイツはプロテスタントとか。
「ユーゴスラビアは三つの宗教」とか書いても伝わらないので、ここで紹介しておこう。と思ったしだいです。

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ちなみに作者は。
バルカン半島はギリシャ・ビザンツに近いし、レコンキスタの影響も薄いだろうし。ドイツ宗教改革とのからみから考えても。
「正教文化圏かな?」と思っていたのですが。

なるほど。中世末期からカトリック勢力圏が拡大し。
バルカン半島は、ラテン(イタリア)カトリックと、海を挟んだカイロ・イスラム、お膝元(すぐ近く)のギリシャ正教。
の。「三勢力のちょうど中心」に位置することになり。ユーゴスラビアを維持するためには、「三つの宗教」並存の意識が必要不可欠だったのか。

と。たいへんに勉強になったしだいです。

恵比寿が神様で毘沙門天が仏教で・・・・・。
等といった、内訳を解説する前に。もっと「根源的」な「そもそも論」を論じたいと思います。

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そもそも「神をこのように描画することじしん「いかがなもの」か?」。
と、老婆心ながら作者などは思ってしまいます。

良く言えば親しみ、悪く言えば軽視。
例えばキリスト教やユダヤ教やイスラム教等では考えられません。
神を敬うと同時に、常に神の罰を憂えているのでこのような暴挙はありえません。

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そもそも、「神の姿を肖像化」することすら。「原則禁止」なのです。
つまり神の絵を描いたり、石像を彫ったりしてはいけないのです!!。

「そんな事あるもんか、教会に行けばキリスト像があるじゃないか」。

後ほど詳しく紹介しますが。
そもそもこの、「イコン」と呼ばれる「キリスト像」の「是非」をめぐって、東西教会は仲が悪くなったのです。

もちろんイスラム教でも同じ神、キリスト教で言うヤーベ神信仰なので通りは同じですし。
ユダヤ教に至っては、まぁユダヤ教の場合、イスラエルの民限定であり。つまり布教活動が存在しないので、当たり前ですが。

「神の像」はおろか、祭司や預言者の絵画等も存在しません。

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で。七福神メンバー紹介ですが・・・・。ウィキすれば済むことだし、割愛しましょ。

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ユーゴスラビアは、作者も今回調べて分かったのですが。
七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。と言われているそうです。

話を戻しますと。世界の宗教構造を理解しないと、例えばユーゴスラビアを説明するとしても。
ユーゴスラビアは「三つの宗教」なのに。「何でプロテスタントとカトリックではなく、カトリックと正教なの?」となってしまうからです。

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解説の仕方ですが・・・。
通常この手の事を説明するときは、「時代順」に並べますが。
へそ曲がりの作者は今回その逆。現代からさかのぼって解説しようと思います。

最終的(つまり「源流」)には恐らく、ほとんどの日本人の知らない「驚くべき事実」が待っています。お楽しみに。

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U キリスト教の小さな枠組み、「カトリック」と「プロテスタント」。

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まず。日本でキリスト教宗派の中で最も有名な分類。
「カトリック」と「プロテスタント」ですが。

これは世界的な宗教観念から考えると、最も後に分化した宗派で。
現在に至っては当のカトリック圏の人たちにとっても、ほとんど意識されることはありません。

日常生活で意識されることもほとんど無く。例えばお葬式の時、「神父様」を呼ぶか「牧師」を呼ぶか、の違い程度です。

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調べてみると。作者自身も授業で教わった記憶の中に、わずかに残っていた。
ドイツの「ルター」が行った宗教改革が、プロテスタントの源流だそうです。

日本ではエリザベス女王がプロテスタントに改宗したことにより、ローマ法王より弾劾を受けたこともあり、大変有名ですが。
中心地のドイツでも、歴史的に大きな変化を及ぼすに至らず。中世末期には沈静化しました。


↑ 映画「エリザベス1世」。 王位継承権を持つ異母姉妹メアリーを処刑し、
その後ろ盾となっていたスペイン無敵艦隊との戦いにのぞむエリザベス一世。

この戦いに奇跡的勝利をおさめた事により、念願のスコットランド併呑を果たします。
スコットランド問題は、元をただせばノルマンディー人のイングランド占領からなので、実に500年以上!!。
その上余勢を駆ったイギリスは、国内平定に飽き足らず、文字通り世界帝国・大英帝国の道を歩むことに。

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「ドイツの宗教改革」に焦点を当てると、ピピンなど聖職者による「叙任権闘争」の方がはるかに「大事件」であり。
これは世界(ヨーロッパ)を巻き込む大事件で、カロリング朝出現により一度は平和が訪れたヨーロッパ地を。
再び暗黒の戦乱の世に逆戻りさせる深刻な事態でした。

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V イスラム教の大枠1。正統カリフ制度を擁護する派閥と、そうでない派閥。

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次の「宗教分化」は、ルターが活躍したのが16世紀ですから。
さかのぼること約「900年」。こちらはキリスト教ではなく、イスラム教の大事件です。

この事象により、ほぼ「世界三大宗教」の枠組みが、現代と同じ形に落ち着いた。
と、言えるでしょう。

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ちなみにこれは余談で。しかも作者の主観的観念ですが。
ヨーロッパ史と日本史を比べると、「世」の概念が1〜2世ズレていて。

ヨーロッパ、オリエントの歴史は「オスマーン帝国」が出現すると。ほぼ現代のかたちが決まった感があります。
(オスマーン帝国が出現すると、歴史の勉強も終焉が近い気がするものでして。)

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さておき。
この大事件はカトリックとプロテスタントの分化などとは比べ物にならない、まさに人類史の大事件であり。
現代世界にも大きな影響を及ぼしています。

世界の「大問題」。イスラム国出現の原因でもある。イスラム教「スンナ派」と「シーア派」の分化です。


いまなお続く「憎しみの連鎖」。 スンナ派フセイン政権を擁護したり、滅ぼしたり。
現在の中東動乱の原因は、このようなアメリカの対イラク政策にあります。

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作者もこの歴史を学んだときは、まだ20代の若造だったし。イスラム教宗派が、今ほど大問題にはなっていなかったので。
「正義のシーア派」程度の、レベルの低い意識を持ったのを覚えています。

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事のしだいを簡単に説明すると。

イスラム教開祖、預言者「ムハンマド(日本ではマホメッドとも呼ばれる)」が死ぬと、その後継者を。
信徒の選挙により選ぶようになりました。

後継者選任方法は、太祖が生前に指名。もしくは選任システムを構築しないと。後継者争いが起こることが多く。
何十人もの「皇帝が乱立」したり、「皇位簒奪」、「暗殺・内戦」等等が勃発するのが。残念ながら人間社会の常なのですが。

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その点イスラム教は賢明であり。
まぁローマの皇帝制度の影響大とは言え、極めて近代的制度を構築し。

この選挙により選ばれたものは、「ハリーファ・ラッスール・アッラー」。神の使徒の代理人と呼ばれ。
宗教はもちろん、政治と軍事の最高権力者として君臨しました。

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W イスラム教の大枠2。正統カリフ制度を擁護する「シーア」と、そうでない「スンナ」。

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アクションフィギュアでもおなじみとなっている、湾岸戦争・イラク戦争。

ハリーファとは「カリフ」とも呼ばれ、選挙によって選ばれる制度を「(正統)カリフ制度」とも言われます。この選挙制度は、四代目まで続きますが。
五代目ムアーウィアのウマイヤ家が独占的に「世襲(選挙ではなく子孫に継がせる)」を始めると、これに反対する勢力が生まれました。

これが「シーア派」です。

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ちなみに調べると、「シーア」という言葉は「派」という意味だそうで。「シーア派」と言うと「派派」となり。
「ヘンテコなアラビア語」になってしまうそうです。
(いまだ「アーリア系」住民は併呑されていないので、ペルシャ語ではなく、アラビア語。)

シーア派はもともとこのように、いわば「市民運動」「抵抗運動」だったのですが。
アッバース家の党首が、これら勢力を糾合・組織化すると。「シーア派」という大勢力へと発展し。

ウマイヤ家派(当時はまだ「シュルタン(スルタン=スンナ派)」という呼び方が無かった)と。

選挙で選ばれた最後の正統な統治者、「四代目カリフ・アリー」を奉る「アリー派(このアリー派の「派」がシーアの語源)」に、分裂しました。
(チョッとややこしいのですが、三代目カリフウスマーンは暗殺され。ウマイヤ家はアリーが犯人とし、「血の復讐」を誓い、選挙によらず。
ムアーウィアは独断でカリフを宣言した。)

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当サイト「ビウティ」で、「正統カリフ派のシーア、アッバース家がスンナ派」と記していますが。
ここまでの歴史を読むと、ウマイヤ家がスンナ派で。正統カリフ派・アッバース家がシーア派のように思えてしまいますが。

アッバース家党首は、いざ最高権力者の地位に就くと。なんとシーア派を裏切ってしまい。
結果。シーア派組織より強い抵抗を受けるようになりました。

シーア派はこれまでの法典(コーラン)を、「より平等」な内容に是正しており。
アッバース朝カリフは、このシーア派の法典をやめて。従来の法典に改宗してしまったのです。


アッバース朝の最大版図。
アッバース家はシーア派の矛先であるウマイヤ家を弾圧。
これを免れたウマイヤ家の者がスペインまで到達し、「後ウマイヤ朝」を打ち立てます(深緑)。

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そしてこの、アッバース家の「うしろだて」として支援していたセルジューク朝(今のトルコ)の主導者が。アッバース・カリフより。
「新たな主導者の地位」として、「シュルタン(シュルターナ=統治者の意味)」の地位を授かると。

逆にアッバース朝のカリフは世俗権力を失い、宗教上の「象徴的存在」と化し。
この「シュルタン派」の「シュルタン」が「スンナ」の語源となり。

ここにイスラム教二大勢力、「スンナ派」と「シーア派」が完成された訳です。

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X イスラム教の大枠3。ちなみに。現代世界最大の問題、イスラム国はなぜ?・・・・。

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このように、イスラム教のシーア派とスンナ派は・・・。

もともと「シーア派国家」とか、「スンナ派地域」とかがあったわけではなく。また主導者の信仰も時代によって変化しているため。
たとえば地図上で、「この辺がシーア派」とか「この国はスンナ派」という枠組みが存在しない場合が多く。

現在でも、「一つの国に両派が並存している」場合が珍しくありません。

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例えばヨーロッパでは、「北欧はプロテスタントが多い」とか。そもそも。
ドイツを境に東と西に別れ、カトリックと正教という文化を形成していますが。
イスラムの場合、こうした地理上の分布の傾向が薄く。

シーア派とスンナ派は、世界中で「混在している」と言っても過言で無いでしょう。

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← 映画「アラビアのロレンス」。 掛け値無しに面白い映画です。

学術的見解では通常。
そもそもアッバース革命(先のカリフ制度騒動)時代を過ぎると。スンナ派とシーア派の「深刻な」対立は解消しており。
現在のシーア・スンナ両派の対立は「別問題」」、と言うのが体制を占めます。

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アッバース革命時代後も「小競り合い」は続きますが、深刻とは無縁であり。

むしろ、今なお続く深刻な「対立構図」を作ってしまったのは。実は「ヨーロッパ」。特に「大英帝国」の介入によるものなのです。
いわゆる「アラビアのロレンス」のような事象です。

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Y ここでチョッと、解説する「順番」について・・・。

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さて次が、いま主題に据えている「正教」誕生のいきさつです。

が。
その前にチョッと年代について断ります。

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日本にももちろん「正教会」がありますし。日本の教育も「年代」を教える部分もありますので。
東西教会の分裂が「1054年」である事は、意外と知られている事かもしれません。

となると当然、前記のアッバース革命は700年代だし。こちらの方が先だ。
となりますが。この文書では「きっかけ(原因)」の部分に注目しているので、この順番になることをご了承ください。


↑ セント・ソフィア大聖堂 6世紀、ユスティニアヌス大帝によって建立された、キリスト教教会。
後に( 約千年後 )オスマーン帝国によってイスラム教モスクとして改築された。

約千年にわたり、「世界最大の礼拝堂」として存在しつづけた、文字通りの人類史上最大級の歴史建造物。

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つまり宗教の分化の場合(国家の分裂でも同じですが)、双方が「自分の方が正しい」と考えているので。
とうぜん自分こそが「仏教」、自分こそが「ローマ」と、主張するわけでして。

「大乗仏教」「上座仏教」とか、「東ローマ」「西ローマ」等といった「言葉」そのものが誕生するのはずっと後になるのです。
実際、分裂後のローマ。例えば、フン族と戦った西ローマ市民も、自分たちのことを「西ローマ」とは呼んでいませんでしたし。

ビザンツ市民に至っては。滅亡までの千年以上もの間、ビザンツはおろか、「東ローマ」とも呼ぶ事はありませんでした。

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つまり「東西教会分裂の年」とされる1054年は、後世の歴史家が定めたものであって。

当時の人々は、いまだ「分裂した」とは解釈していなかった。ということです。

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で、順番ですが。
実際、「スルタン」が初めて任命された(「スンナ派」の語源の誕生)、上記のセルジューク朝が11世紀で。
東西教会分裂は12世紀ということで、キリスト教が後に思えますが。

今度はじゃあ、東西教会分裂のきっかけを何処に定めるか?。って問題になり。

一番分かりやすいのは新都のギリシャ化、これが8世紀なので。
アッバース革命とちょうど同時期になるのですが・・・・・。

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対立構造が表面化して初めて、「袂を別つ」訳ですので。
その点から言えば、「スルタン」という言葉が発生するのが11世紀に対して、ビザンツ帝国ギリャ化の8世紀が対応し。
きっかけとなる、反アッバース派(後のシーア派)の発生が8世紀で。ローマ帝国分裂が4世紀と、に、対応する。と定義させて頂きました。

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「ギリシャ化」と「アッバース革命」が対応し、双方同じ8世紀なのでは?とも思えますが。
肝心なのは、8世紀時点で既にビザンツ市民は「普通に」ギリシャ語を話していた。という事です。

いつ頃からかは、今となっては知る由もありませんが。
6世紀、ユスティニアヌス治世下には既に変化していたとされています。

ゆえに東西教会分裂 ⇒ スンナ派・シーア派分裂の順番となります。


ローマ帝国分裂
395年

↑ オドアケルの占領
西ローマ帝国皇帝廃止
(西ローマ滅亡)486年

コンスタンチノープル
ギリシャ化 6世紀頃

↑ 千夜一夜物語
アッバース革命8世紀頃

↑ 和解する教皇・主教
東西キリスト教分裂
1054年

スルターン称号
トゥグリル・ベグ
拝命11世紀頃

( 「スンナ」 フォロワー 「正教」ではなく。 「正教」 be フォロワード by 「スンナ」。 の、順。で、正順 ドール「なんじゃそりゃ」) 

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Z 「正教」を理解するには、ビザンツを理解しないと始まらない。

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「ビザンツ帝国」。

恐らく、日本においては、大変に馴染みの薄い国だと思います。
実はこれは日本に限った事ではなく。前にテレビ(放送大学)で観たら、高山先生という方が。

「歴史的に、ビザンツ帝国の果たした役割は大きく、他を圧倒しているのにもかかわらず。
研究対象として、これに「見合った規模」の研究の場を設けたことは無かった。」とおっしゃっています。

↑ ユスティニアヌス大帝。 日本では知名度低いローマ皇帝ですが、日本の法制度にも影響している「ローマ法大全」の編纂や。
帝国領の拡大(かつての統一ローマ時代に匹敵する領土を取り戻した)、セントソフィア大聖堂の建立などを成した。

穏やかで親しみやすく、怒りを決して面に出さない人格者であり。
「眠らない皇帝」と称されるほど精励だが、数千数万の殲滅戦を平気で命ずる冷血漢も併せ持つ。

極端な能力主義で、妻も元奴隷身分の「テオドラ」だが。
帝室に連なる貴族・有力者に代わり、能力主義の人事に徹した事もあり、ビザンツ史上最大の内乱を招いたが。
これを鎮圧し、かつて無いほどの絶大な皇帝権力を掌握した。

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なぜそうなるのか?。
当サイト作者は、この「なぜ」という言葉が出てくると、考えずにはいられなくなってしまうので。
(勝手に)考えてみると。

1.   まず。「古代ローマ帝国」が有名すぎて、相対的に影に隠れてしまっている。

2.   これにも掛かりますが。古代ローマ帝国の「恩恵」を受け継いだだけの存在で、特筆すべき点に乏しい。

3.   古代ローマ帝国から以降。版図がほとんど一方的に「縮小」するばかりで、帝国主義が見られない。

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1・2 は要因として薄いです。何故なら 1. はともかく、歴史的貢献度が高い国でも、脚光を浴びない事がままあるからです。

問題は 3. です。
残念ながら人類の歴史は「戦争歴史」であり。逆に、「戦争で勝った国が脚光を浴びる」傾向が。残念ながら強いからです。

6世紀。ユスティニアヌス治世下で、古代ローマに匹敵する領土を一旦は回復しましたが。全体的には「縮小の一途」であり。
最後の方は情けない事に、同じキリスト教十字軍に支配を受け。オスマーン帝国に滅ぼされてしまったからです。

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「軍隊の強い国」。例えば「アッシリア」「ペルシャ」「古代ローマ」。西ヨーロッパに限定しても、やはり軍隊の強い国。
ゴウト王国、フランク王国などが人気を博し、逆に「スラヴ系」民族などが脚光を浴びることはありません。

もちろん。
戦争では有名ではないのに、「歴史的貢献度」で有名になった国もあります。
典型が「イスラエル」です。

「サウロ」「ダビデ」「ソロモン」。
これら諸王時代には、相当な勢力を誇り。相応の強い軍隊を有していましたが。やはりイスラエルが研究の対称になるのは、やはり宗教だからです。

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平和な現代に暮らす私たちは、とかく「戦い」に思いをはせ。「ロマン」さえ抱きがちですが。
「その時代に生きた人々」にとっては、戦争など「以ての外」。


中世末期。ヨーロッパがいわば「安定期」に入る直前に起こった。最後の根絶やし戦争。
「三十年戦争」。虫けらのように殺される人々。人口を減らすほどの、悲惨なものでした。

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特に中世中期までのオリエントやヨーロッパの戦争は悲惨なものが多く。
つまりここまでに留めるべきと言った、「暗黙の了解」が無かったので。根絶やし・皆殺しは当たり前。

男は奴隷の果てに殺され、女は犯されて殺されるのが当然だったらからです。

ロマンのカケラもありません。

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その点から考えれば。
ビザンツ帝国は。「そこに生きた人々は」人類史上最も「幸せ」な人々だったと言えるかもしれません。

ビザンツ帝国とはそんな国なのです。

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さて、いよいよキリスト教「東西教会分裂」です。が。

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自身は歴史から入ってしまい、「イースター・エッグ」とか「13日の金曜日」とか。
世間で話題になるような事が、逆にごっそり抜けている事がままあるのですが・・・。

歴史ばかりを解説しても「面白くない」、ので。

戦後、「鉄のカーテン」の向こう側に追いやられ。

人々の記憶からも薄れかけてしまった「正教」。を、解説するにあたり。
まずは「食いつきやすい」部分から攻めてみます。
なので改めて題名を・・・・・。

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広まっていた地域が、「悲劇」の中心地だった正教。

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正教の分布地域は、今の時代、ウィキすればすぐに正確にわかりますが。
「悲劇」と呼ばれる根拠について解説しますと。

第二次大戦から冷戦までの「宗教がらみ」の悲劇といえば、ユダヤ教弾圧。
「ホロコースト・ジェノタイト」ですね。


↑ ワシントンD.C ホロコースト記念館

ホロコースト。 人間はかくも残忍になれる事を証明した証。
中世以前の奴隷、植民地住民、そして日本のアジア諸国への行為も同様。

ガス室等によって死んだ人数はずっと少ない、との見解もあるが。
病死にしろ、重労働にしろ変わりない。

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しかしそれと同じくらい、またはそれ以上の悲劇として。「スラヴ民族」の正教分布地域の悲劇が挙げられます。

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「ユダヤ教弾圧と違って、正教は弾圧の対象ではない」。とも考えられますが。
これは、現代の「イスラエル」の概念が薄かった。

つまりいまだ「ユダヤ人=ユダヤ教」的イメージがあるせいであり。

ご存知の通り、ナチスの台頭は賠償金関連。つまり経済的背景がメインでしたし。
実際、ヒトラーも、「経済を牛耳るユダヤ人」という観点から、ユダヤ人を排除するという結論に至っています。

← 「ユダヤ教迫害」イメージのヒトラーは、実はユダヤ教はもちろん。
   キリスト教をも嫌う無神論者で有名です。

(ヒトラーのユダヤ教嫌いはもとより、「キリスト教嫌い」も有名な逸話ですね。)

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ヒトラーはプロイセン出身ではなく、むしろスラヴ系地域に近いオーストリア=ハンガリー帝国の地域ですが。
スラヴ民族に対するこだわりも表しておらず、もちろんプロイセン地域とも縁が無いのに「鉄十字」を多用してしていることからも。

信仰そのものが第二次大戦に影響していない」事は明らかなのですが。


鉄十字(陸軍章)をマークするドイツ戦車。
ナポレオンを退けたプロイセン時代からドイツの国章とされるようになった。

そうなると、つまり正教の分布地域がたまたま「東欧」だったという。

つまり、悲劇の舞台と重なってしまった。

というのが、事の顛末、と言えるでしょう・・・・。

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この点だけで考えれば。事実(歴史)は小説より奇なり。

宗教そのものへの「弾圧・優遇・こだわり」を、全く持っていなかったヒトラーが倒れ。

ホロコーストを源流(反動)とする「イスラエル思想の高まり」が、パレスチナ問題を引き起こし。

皮肉な事に、逆にスターリンが。
これも「宗教そのものが原因」とは言えないものの、後に「ユダヤ人」排斥を強行するに至る訳ですね。

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ご覧の通り、日本人の「カトリック(ラテン・カトリック)」への関心・理解は大変に強い。
訳ですが。

「ではなぜ」。キリスト教二大勢力の雄。

「正教」に対して、「これ程までに関心・理解が無いのか?」。

は。
このように、第二次大戦後の勢力分布と。

イスラエルに対する観念・関心が過剰になった。

のが原因、と言えるでしょう。

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宗教だけで考えれば。

イスラエルの思想は、確かに「アブラハム信仰」の三大勢力を包括的に統合する思想で。
その点では大きな成果を収めていますが・・・・。

一方でその当初から、アルベルト・アインシュタインも懸念した通り。

イスラム教との対立を激化するに至り。

現在も、最大の国際問題として残っています。

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食いつきやすい事象として、ホロコーストやスターリン、パレスチナ問題を取り上げましたが。
これでも重すぎて、「チョッと」感が残ったので。

もっと日本人にとって、食いつきやすい事象をオマケにお送りしましょう。

冒頭でも述べた「十字を切る」動作です。

双方共に、額から胸にかけては同じですが。
カトリックは左肩から、正教は右肩から逆へ流します。

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最後にイースター・エッグです。
上段。左から、ポーランド、ウイーン、チェコ。下段。左から、ルーマニア、セルビア、クロアチアです。ウィキペディアより。

イースター・エッグのいわれは、イエスのイェルサレム入城から一週間(最後の一週間)・・・・。
まぁウィキした方が早いでしょうか。

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さて、いよいよキリスト教「東西教会分裂」です。

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ローマの歴史は「寄り道道草ローマ帝国」のページをご覧下さい。

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そんな訳で、「対立」という訳でもなく。
皇帝テオドシウスが息子たちに東西ローマの正副皇帝を継承したのに、兄弟仲が悪かったことが原因で。

事実上の「分裂状態」へと至ったローマ帝国。

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東ローマは・・・。

統一ローマ時代とは比べ物にならないほどその規模を縮小しましたが。
ロシアや敵国オリエント等とも貿易を続け。

何とか継続できた農業や、ロシアとの貿易で得られた「良質な奴隷(スラヴ人等)」等に支えられ。
その後千年以上も継続できました。

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しかし一方の西ローマでは、農業政策が破綻してしまいます・・・。

大規模農業が農奴を生み、地主有力者が事実上「封建体制」へと移行し。
結果、ローマ帝国の誇った強力な中央集権体制が崩壊し、事実上の独立領地へと変貌。

相対的に首都ローマの地位が落ちぶれて行ってしまったのです。

また東方民族との戦いのため雇った奴隷(傭兵)の質が悪く。
奴隷は主に「ゲルマン人」だったのですが・・・。雇い主であるローマに対して、各地で蜂起し。

分裂からたった約百年後の、五世紀末、西ローマは滅亡してしまいます。

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東ローマはギリシャに近く、また敵対関係ではなかった事もあり(従属関係)「ギリシャ人」の人口割合が急増。
ユスティニアヌス大帝の6世紀頃には既に、大半がギリシャ人で、市民の言語もギリシャ語だったと言われています。

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西ローマを滅ぼしたオドアケル、フン族のアッテラと戦った火を吐くテオドリック!。
美しくも怪力少女ブリュンヒュルト、立ち向かう勇者の名はネーデルラント王ジークフリート!!
「オーディンの神に御照覧あれ。」

↑ 左:「ノルマン・コンクェスト」ノルマン人によるイングランド征服。 右:(物語の)火を吐く東ゴート王「テオドリック」

それはさておき(中世ヨーロッパから、現代にも語り継がれる英雄伝の舞台となった時代です。)。
東ローマ帝国の文化がギリシャの影響を受け始めた事を「ギリシャ化」と言います。

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フランス、ドイツ、イタリアなどのラテン系(ラテン=ローマ、つまりローマ人)民族はビザンツ帝国への憧れと共に。
かつての「栄光」をさらって行ったという、憎悪の念も持つようになり。
カロリング朝フランク王国シャルルマーニュが皇帝に戴冠(自称ローマ帝国皇帝)されると・・・・。

「何で勝手に皇帝位を渡すんだ!」という東ローマと、「我こそは正統なローマなり」とする西ローマは。
完全に袂を別つ事になります。

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分裂から300年・・・。

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分裂から三百年が経過し、完全に袂を別けた東西ローマ。
このように「政治的対立」が元で袂を別ちましたが。九世紀末からは別の理由からも、両者の対立は深刻化して行きます。

(古代統一ローマ時代の、アリウス派・アタナシウス派の宗教論争が、東西教会分裂の原因とする向きもありますが。
三位一体説をめぐるこの論争は、「後に起こった」ものです。)

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バックグランドとして。
五世紀末に西ローマ帝国は、ゲルマン人によって滅ぼされましたが。

ゲルマン人諸部族は大小さまざまな王国や部落を形成したため、陸上交易が寸断。
加えてゲルマン人部族の一派、ヴァンダル族の海賊行為により、海上交易も衰退し。西ヨーロッパ地域は「ジリ貧」状態に陥りました。
(海賊というと「ノルマン=ヴァイキング」が有名ですが。ヴァンダルはこれよりはるか以前のことです。)

略奪目的の戦争・海賊。こんな、いわゆる「暗黒の時代」に。

急激に広まったのが「キリスト教」であり。

その総本山が皮肉にも、ゲルマン人の滅ぼしたローマ・カトリックだったのです。


↑ ラストナイト アイ ドリームド サン・ペドロ〜♪ ( /マドンナ )。 日本でもあまりに有名な、「サン・ピエトロ大聖堂」

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西ヨーロッパのジリ貧は、カロリング朝フランク王国による「統一国家樹立」により、一時ブイ字回復しますが。
崩壊後再び低迷してしまいます。

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そんな中、東西ローマ教会では。
「イコン」と呼ばれる、キリスト画像を使って布教活動を行うようになっていました。

しかし前節に記した「イスラーム帝国」が出現し、これが「聖像崇拝を厳しく禁止」していたのですが。

この、急速に勃興するイスラームに接する東ローマ帝国では。
「イスラム教同様、偶像崇拝を禁止しているキリスト教がイスラム教に席巻されつつあるのは。」

「「イコン」のせいで、神の怒りに触れたのではないか?」とされ。

時の東ローマ皇帝レオン三世は、「イコン全面禁止令」を発動します。

↑ 左:イコン。現代ギリシャ語で「アイコン」、つまりコンピュータ・アイコンの語源でもある。
   右:イコノクラスム(イコン破壊)によって、顔が破壊された聖像。

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しかして、あくまで「皇帝権力」の強かったビザンツ(東ローマ)と異なり西ヨーロッパでは・・・・。

皇帝シャルルマーニュがカトリック教会から皇帝位を授かった事や。

その後の「ピピンの寄進」に端を発する、東フランク王国(ドイツ=後の神聖ローマ帝国)の「聖職叙任権闘争」。
その結果生じた「聖界諸侯」による「教皇朝」の乱立。等など。

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西ヨーロッパ地域では、「王権・皇帝権」よりずっと「教皇」の方が強く。

ビザンツで発せられたイコン禁止令は、西ヨーロッパには効力を発揮せず。

逆に、西ヨーロッパ・カトリック教会に「強い反発」をもたらしてしまいました・・・・・。

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こうして、政治的対立から宗教対立へと発展し。

ビザンツ正教会とラテン・カトリック教会は、「お互いを破門」し合い。

分裂しました。1054年でした。

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]T ほとんど日本人の知らないディープ・ワールド。

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さて、最後です。

最後は「キリスト教」と「ユダヤ教」の分化。

と、「ユダヤ教」と「イスラム教」の関係です。

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時制的に考えれば、人類最古の「叙事詩」。

「ギルガメシュ」に端を発する(引用している)旧約聖書の領域なので。

古代バビロニアから、この三つの宗教の分化が完了する、前記アッバース革命まで。

なんと「約3000年」。

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なので詳しく説明すると、「人類史」を全部説明する事になってしまいます。

また。この領域は、残された資料が極端に少なく。(実は古代世界の出来事は、そのほとんどが「説」に過ぎません。)

また。「イスラーム神学」「ユダヤ教神学」などが「独自の学問領域」を形成し。

様々学問領域が極めて「封建的体制」を築き、他の学問領域を「寄せ付けない」状態であり。

極めて神経質な分野でもあります。

更には、日本人にとってキリスト教以外の宗教に対する関心は薄く。

実際、日本にはユダヤ教の幕屋・会堂。イスラム教のモスクも極めて少なく。

あまり語っても意味が無いので。資料も少ない事もありますし、極めて「端折って」説明したいと思います・・・・。
また、神経質な事象なので、下手な挿絵を入れずに、文字のみで行きます。

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]U キリスト教・イスラム教・ユダヤ教 1

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キリスト教とユダヤ教の分化です。まずは「ユダヤ教」です。

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日本ではキリスト教に対する情報は大変に多いのですが、その母体となるユダヤ教の事はほとんど知られていません。
日本では「ユダヤ=迫害」のイメージのみ。大げさではなく、9割方、この認識のみと言って過言ではないでしょうか。

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ユダヤ教の源流は、「ある首長」の率いる部族に語り継がれた物語、に端を発します。

もちろん、この時点で語られたものは「それ以前」の出来事。つまりその時代まで続く。
日本語で言えば、「過去の物語」ではなく。「過去完了」「現在完了」の短編集で、壮大な物語でした。

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首長の名は、ユダヤ系のヘブライ語で「アブラハーム」。イスラーム系のアラビア語で「イブラヒーム」と言います。

ウィキペディアにも年代は書いてありませんが、自身の記憶では。
カナーンでその存在が確認された(通常「栄えた」と表現するのですが、遊牧民なので。)のが紀元前1500年頃。
モーセのエジプト脱出が、紀元前1200年頃なので。およそこの間という事になります。

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この後もこの物語は語り継がれ、その後のエピソードも付け加えられていきますが。

アブラハムの孫が「ヤコブ」で、このヤコブの息子の中の10人と、二人の孫の名前が。
ルベン・シメオン・レビなど、現在のユダヤ12部族の名前となっていて。ヤコブは「ユダヤ人の父」と言われています。

但しヤコブの息子達の中で最も重要な人は、12部族に名前の無い「ヨセフ」で。
このヨセフの働きによって、ユダヤの民はエジプト・ファラオに認められ。
以降、ユダヤ人(このとき既に分家が派生しているので、「イスラエルの民」と記します。(ユダヤ人⇒イスラエル人))はエジプトへ移住しました。

そしてこの辺までのエピソードを「創世記」と言い、これが「旧約聖書(ユダヤ教)」の源流となったのです。

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その後、「悪いファラオの出現」(イスラエルから見て)により、イスラエルの民は「モーセ」の手引きでエジプトを脱出し。
神との「約束の地「カナーン」」を目指します。

カナーンとはシナイ半島の辺りですが、イスラエルの民は現在の「イェルサレム」に定住を始め。
神から禁止されていた「人間の王」の輩出を、サムエルによって解禁され。

イスラエル人の名だたる王、「ダビデ王」や「ソロモン王」によって絶頂期を迎えます。
(禁止=「人の上に人(王)を置く」事は禁止されています。バビロニアの「ニムロデ王」に対する罰が有名ですね。)

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しかしソロモン王の後継をめぐって民族が二分(イスラエル王国とユダ王国)し。

イスラエル王国は、当時勃興した「アッシリア」によって滅ぼされてしまいます。

オリエントは古来、バビロニアやカルディア、イスラエルも含む「セム・ハム系」民族と。
ペルシアを中心とする「アーリア系」民族が、古くから覇を争ってきましたが。

ヒゼキア等の良君によって、かろうじて残っていたユダ王国も。
「新バビロニア」に併呑され、イスラエルの民は「バビロニアの奴隷(バビロン捕囚)」となってしまいました。

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そして奴隷として虐げられる中で、同じユダヤ人としてネットワークを作る媒体として(ユダヤ人のアイデンティティ啓発)編纂されたのが。

旧約聖書」です。

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こうして大編纂された「聖書」。(ユダヤ教の場合はここで終了なので、単に「聖書」と呼ばれる。)

「イスラエル」の概念から考えれば、「イスラエルの民がいる限り続く、ネバーエンディング・ストーリー」なので。今なお続く物語。
つまり、中東戦争も911もイスラム国も。ある意味。千年後の歴史家の解釈では、聖書の1ページなのかもしれません。

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とは言え、一般的にはもちろん。ユダヤ教の場合特に。
その性質上(ユダヤ人専用)。聖書は、バビロン捕囚終了と共に、その存在意義が縮小し。

現代「奴隷解放功労者」の一人にも数えられる。「ペルシャのキュロス王」によるユダヤ人開放。
そして、解放後。ユダヤ人国家の再建開始の辺りで、この壮大な物語は終了します。

(「聖書の最後」というと、すぐに「最終戦争」やら「裁きの日」などが連想され。実際検索してもそれしか出てきませんが。とうぜんこれはキリスト教聖書。新約聖書のことです。)

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余談ですが。

聖書の中で「記(もしくは「節」)」を構成するほど大きなエピソードではありませんが。このペルシャ帝国から解放される際。
城門を通って外へ出る描写が記されているのですが。

「ある意味」。このシーンが旧約聖書の最後のクライマックス。エンディング的な捉え方をされています。

20世紀初頭、世界を驚かせた大発見。コバルト・ブルーの美しい「城門」。

それが、「イシュタル門」からの開放です。

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]V キリスト教・イスラム教・ユダヤ教 2

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イエス・キリストの「キリスト」とは敬称で。「洗礼を受けた者」が語源で、つまり「信仰」そのものを意味し。
「キリストのイエス」と翻訳されます。

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説明するまでもありませんが。

イエスはユダヤ人であり、大工業の父と聖母マリアの許に降り立った神の子。生誕の年は・・・・。

知らない人はいませんね、「アンノ・ドミニ(重ねる年=イエスの年)」。

現在AD2000年代なので。2000年前の「紀元元年」ですね。(本当は数年ズレています。)

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イエスの「逸話・実話」は、「驚くほど多く」世に氾濫しているので割愛させて頂き。最後の一週間のみ触れますと。

日曜日。
ナザレに生まれ、各地で奇跡を起こし有名になったイエスは。イェルサレムを訪れます。
イェルサレムの人々は歓呼で迎え、「キング・オブ・ジュー(ユダヤの王)」とまで称されました。
しかし、この事は当時の統治者であった「ローマ帝国」の為政者達に、決定的に強い敵愾心を植えつけることとなります。

月曜日。
イエスはイェルサレムの神殿に乗込み、そこで、「教え」で禁止されていた「神殿での商売」を行っていた者達を蹴散らします。
しかしこの事は。神殿での商業活動で利益を得ていて、司祭衆に強い反感を生みました。

火曜日。
イエスはイェルサレムを出て、オリーブの丘で。弟子たちを集めて説法を説きます。

水曜日。
水曜日の記述は、聖書にはありません。なので、「休息日」となっています。

木曜日。
夜、イエスは弟子たちと一緒に晩餐(最後の晩餐)を開きます。
しかし、その席を抜けた弟子の一人。「イスカリオテ」は、ローマ帝国の元に密告に走り。

金曜日。
未明。「ゲセマネ」で、イエスはローマ総督によって逮捕されます。
裁判は即決し、総督自らのムチ打ち後、午後には刑執行がなされました。

土曜日。
安息日です。

日曜日。
復活。ここからは既に人間としてのイエスの業を超え。
神として崇められています。

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ユダヤ教とキリスト教がなぜ反目し合うのか?
そうですね、説明するのが難しい部分もありますが。

「堕落したユダヤ教を改革しようとしたイエスを、ローマから守る事ができなかった。」

に、尽きるでしょう。

この点を突き詰めても平行線である事は明白で、無理やり議論しても、文字通り「不毛の神学論争」となってしまいますので・・・。

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イエスの死後。イエスの生涯を綴った書物は、残った「弟子達(使徒)」によって聖書として編纂され、「新約聖書」と呼ばれるようになりました。

聖書がユダヤ人専用・限定の、「神との約束」だったのに対し。

「他の民族でも神と約束を結ぶ事が出来る」と、門戸が拡張された聖書。これが新たな契約書。新約聖書です。

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]W キリスト教・イスラム教・ユダヤ教 3

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この章は短くします。
持論はもちろん、双方の主張を相関・比較する事も無く。根本事象のみ。

更には、論争を避けるため、あえて「一方(ユダヤ教)」のみの主張を記します。

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先に記した通り。イスラム教も「アブラハム信仰」の一派です。

つまりユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、「出発点は同じです」。

例えばゾロアスター教もユダヤ教・イスラム教に影響を及ぼしていますが。

この場合、影響ではなく、原点が同じなのです。

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これはあくまで「ユダヤ教側」の記述です。

アブラハム夫婦には子供が出来ず、自らが世継をもうける事をあきらめた妻の「サライ」は。

下女(奴隷)をアブラハムに差し出し、子供を授かりました。

しかし程なく奇跡が起こり、高齢のサライにも子供が生まれました。

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その後二人の子は成長し。次男「イサク」は神の祝福を受けますが。

困った事に、長男「イシュマエル」は「乱暴者」になり。

やはり下賎の女なのでしょうか。母親もこの素行をとがめる事無く。

結局、イシュマエルとその実母は、アブラハムのキャラバン隊から追放されてしまいました。

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放浪する親子。水も尽き、死ぬ直前に神の情けで生かされます。

このイシュマエルの子孫が「アラブ人」だとされています。

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もう一度、これはユダヤ教側からの記述です。

興味を持たれた方は、是非調べてみてください。

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