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寄り道道草「ローマ帝国」。



↑  上)映画「グラディエータ」より  下)ローマ首都中心地「フォロロマーナ」

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歴史や社会を理解するとき、どうしても予備知識として知っておかなければならない事柄というのがあるものでして。

当サイトの、軍事に対するポリシーをご理解頂く上で、「現代世界に発生する独裁のメカニズム」を綴りましたし。
「世界の宗教構造」のページも、元はと言えば、スラヴ民族を語る上で、必要を感じたためでした。

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今回は、人類史を語る上での「ツボ中のツボ」。ローマです。

ハッキリ言って、「人類史を理解するに避けては通れぬファクター」。
それがローマである事は、大多数の歴史家が同意するに違いないと言えましょう。

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T.  予備知識として必要不可欠な「ローマ」、を、知るために必要不可欠な「皇帝制度」。

U.  予備知識として必要不可欠な「ローマ」を知るために必要不可欠な「皇帝制度」2。

V.  ローマの歴史に戻りましょ。

W.  最大版図。ローマ帝国絶頂期。

X.  急速に勃興する新興宗教の前に、暗雲たちこめるローマ帝国。

Y.  膨張するキリスト教徒の前に、なす術を無くしたローマ帝国。

Z.  東西ローマ帝国の趨勢。

[.  長い歴史の中で、断続的に騎馬民族の侵攻にされされるヨーロッパ。

\.  なす術なし!。かつて無い強大な敵「アラブ・イスラーム帝国」。

].  奪還作戦開始!。聖戦と位置づけられるイスラムに対する十字軍の実態は?・・・。

]T. ローマの歴史からチョッと外れて・・・。

]U. いよいよローマの最終章です。

]V. 最後に・・・。「血統」、「種族」、「民族」とは?。

]W. 最後に・・・。「血統」、「種族」、「民族」とは?。2

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例の如く、作者の知識の範囲で。
ろくに調べもせず、サラサラっと綴ります。ですので、どっかで間違ってるかもです。詳しくはウィキして下さい。

また例の如く制作途中です(完成はいつの事やらですが)、すみません誤植とかあるかもです。

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T. 予備知識として必要不可欠な「ローマ」、を、知るために必要不可欠な「皇帝制度」。

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イタリア南部にできた小さな王国、それが初代ロムルス王を頂くローマです。
その後、悪政を布いた国王を追放し、紀元前七世紀末。

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「王のいない国」、共和制国家の道を歩み始めます。

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セナートス・ポピュルス・ケイ・ローマーノス。「SPQR」、ご存知の方も多いかと思われます。
元老院(民政)と共にあるローマ。のような意味になるそうですが。

要するに「政治は国民が行うのだ!」という意味です。

← イタリア人は自らの手により「共和制」を生み出した事に誇りを持っており。
   今もなお「挨拶代わり」にSPQRと言い、この写真のように至る所にデザインされています。

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本来はここで、「人類の持ちえた社会体制」を説明しなければなりません。

「専制君主制」、「立憲制度」とは何?。「主権在民」または「社会主義」、「共産主義」、「共和主義」等のいわゆる「自由主義」。
「あれ?、共産主義が自由主義なのか?」。実はカール・マルクスの共産主義も自由主義に分類されるのです。

「国民国家」の概念も重要です。

絶対に殺されてはならない筈の、人権によって保障された「人の命」を、湯水のように死地に送り込む事を制度化してしまったもの。
それが「国民国家」です。(つまり自己犠牲の制度化)

ですが当然ですが・・・、とてもここでは語りつくせない事は言うまでもありません。

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とは言え。
そうやって政治制度の説明を、全省略するのもなおざり過ぎるので、今回のテーマに最も即した。
皇帝制度」のみ紹介します。

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「皇帝」という言葉はお馴染みですね。
皇帝の英語読みで有名な、ラスト・エンペラーのエンペラー。ドイツ語のカイザー、ロシア語のツァーリ、そして本家ラテン語のインペラトール。

でも、皇帝の意味は有名でも、「皇帝制度」を説明できる人は少ないと思います。


www.irasutoya.com より「劉備」。
魏呉蜀三国志の雄。お恥ずかしながら皇帝位に就いた事は知りませんでしたが。
「曹操もうとく」(すみません漢字をしりませんで)「孫権ちゅうぼう」「劉備元徳」
の三人の中で最も人気が高く。大体、悪役曹操、正義の劉備となりましょうか?

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「内容や意味はどうあれ、皇帝が居ればそれが皇帝制度だ。」正論です。
完全に権限を失い、「お飾り」と化した「神聖ローマ帝国皇帝」であっても、皇帝制度は皇帝制度です。

なので、ここで言っているのは。発足当初の、つまり皇帝制度の根源的意味は何か?
という事とご理解下さい。

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U. 予備知識として必要不可欠な「ローマ」を知るために必要不可欠な「皇帝制度」2。

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映画「アマデウス」より。
神聖ローマ帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ二世と、これに謁見をはたすアマデウス・モーツァルト。

皇帝制度とは?。

階級が貴族より上の「王」、そしてその上があれば、それが「皇帝」?

公爵・伯爵が「殿様」。つまり国王で、それを統括するのが「皇帝」?。つまり日本の「征夷大将軍」みたいものか?。

それとも幕府将軍家に対する天皇家のようなものか?

実は本来の「皇帝制度」とは、驚くべき事に「階級」とは全く関係ないものでした・・・。

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「階級」の意味するところは、とどのつまり、「権力の強さ」に他なりません。
(権力の伴わない階級は即ち「名誉階級」と呼ばれ、別の言葉に変化してしまいます。)

実は当初の皇帝制度の皇帝位とは、「何ら権力を持たぬもの」だったのです。

つまり権力とは、「持って良いのは民衆の代表たる議会議員(元老院議員)であって。他が持ってはならぬもの。」
というのが共和制ローマ市民の真髄であって、それが「SPQR」なのです。

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でもカエサル(ユリウス・カエサル=ジュリアス・シーザー)の登場によって・・・。

議員より「 えらい人 」が出現してしまいました。

でも考えてみれば、私たちは「階級」=「えらい」と。無意識に使っていますが。考えみれば、「えらい」と「階級」は別ですよね。
階級が上でも「えらくない人」がたくさんいますし、逆もしかりだからです。

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では権力(階級)は無い(与えたくない)けど、最高権力者(議員)より「えらい人」をどう扱うか?
の。パラドクスを解決したのが「権威」です。

実は、最高権力者が議員で。だけど、それ以上にえらい人。
それがいわば最高権威、「皇帝」なのです。

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そしてこの。
権威と権力の相関関係を制度化したのが皇帝制度」なのです。


ローマ初代皇帝「アウグストゥス」。「セイレーンPARTY」ページでも登場しますが。
インペラトール・カエサル、ディヴィー・フィーリウス・アーガストス、ポンペフィクス・マキシマス・・・・、という具合に、長い名前です。

ジュリアス・シーザーの後継者にして、シーザーとクレオパトラの子を排斥し初代皇帝となった人物。
「権威」と「権力」という言葉を上手く使って、「皇帝」という存在を、共和制の中に組み込んだ人物。

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じゃぁ帰結は?抽象的、表現的説明ではなく。インスタンス、具現的に解説するなら?
具体的には、市民の選挙によって選ばれる最高権力者が元老院議員で。

市民の「歓呼」によって選ばれる、最高権威、いわば「人気者」。
それが「皇帝」なのです。

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言葉で言えば、「エンペラー」と「マジェスティ」、「キング」と「ナイト」、「アミール」と「カリフ」(イスラーム)等の関係を。
是非ウィキしてみて下さい。面白いですよ。

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V. ローマの歴史に戻りましょ。

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ローマは、「サビーニの女」で有名なように。

征服した国の住民を、皆殺し・根絶やしにするのではなく。当時の王国としては珍しく、征服地域を「併呑」する形をとりました。

(もちろん被征服地の住民は奴隷ですが、奴隷から市民権を得る事も可能でした。)


絵画「サビーニの女」。
「ケンカをやめて〜」と歌が聴こえてきそうな、ローマ軍と敵対兵士との仲介をする女たち。
奴隷となった女は、通常の王国なら悲惨な運命を辿るのが当然だったこの時代。

ローマに囚われた女は、その待遇の良さから。なんと奪還しに攻めてきた「味方兵士」を止めに入った。という逸話があります。

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王制から共和制に移行した後も、ローマは着実に版図を広げて行きますが。
それでも、後の「ローマの快進撃」には程遠く。まだこの頃のローマは、あくまで「ゆるやかに」拡大を続けました。

そんなローマの転機となったのが、カルタゴとの百年戦争です。
国家というのは、強大な敵と戦って勝つと、その後大発展をとげる場合が多いのですが。ローマもその倣い通り。

カルタゴに逆転勝利を収めた後、猛烈に拡大してゆきます。


ポエニ戦争(カルタゴ・ローマ百年戦争の別名)で、ローマに最大の危機をもたらした、
カルタゴの将軍「ハンニバル」の進撃ルート。

海を挟んでほぼ真北に位置するローマを攻めるに、イベリア半島から迂回し。
防衛線の無い、反対側から攻め。ローマを陥落寸前まで追い込みました。

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ローマの戦術。
と言うより、戦略も含め。ローマの強さ・特徴は「船舶」にありました。

もちろんローマ国道も有名ですが。
軍事(軍艦)はもちろん、経済活動をも支えたのが、突出した操船技術に裏付けられた「海上交易」だったと言って過言で無いでしょう。

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ご存知のようにヨーロッパ地というのは、火山大地の日本と異なり、大陸であり。険しい地形が多く、もともと陸上交通より海上交易。
「ブローデル」の著書「地中海」よろしく、険しい山脈や広大な砂漠によって「隔絶された」世界であって。

その「ネットワーク」の最たるものは、ギリシャ文明の大昔から。「海上交易」でした。

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カルタゴに勝利し、快進撃を続けるローマは。
勢力拡大の途上で、ギリシャをも占領するわけですが・・・。

ローマというのは、もともとギリシャ文化の影響を受けていたのですが、占領後は、この傾向がいっそう強まり。
衣服、武装、様式、宗教などなど。より一層ギリシャ文化に「染まって」ゆき。

「文明でギリシャを占領したローマは、文化でギリシャに占領された。」と揶揄されました。

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W. 最大版図。ローマ帝国絶頂期。

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環地中海全域を征服し・・・。

ここに広大な領土を得たローマですが。

国土が広くなったため、政治に対する要求が地域によって大きく異なるようになり。

共和制の持つ「副作用」が露呈し始めます。

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どういう事かと言いますと。

各地域の代表(近代の「選挙区」等とは意味が異なりますが)たる、元老院議員の要求が、各地方によって大きな差異を生じるようになり。
結果、政治的解決能力が著しく低下し、「共和政体が機能不全」に陥ってしまったのです。

例えば東の方では、東方(オリエント)軍の兵士が疫病を伝染させたから、強制隔離の合法化を求めているのに。
中央では、サーカスの回数を減らすか否かを真剣に議論していたり・・・。と言った具合です。

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それを武力(非合法)で打開したのがユリウス・カエサルです。

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カエサルは、元老院の「衆愚政治」を一掃し。一般市民には絶大な支持を得ました。
しかし非合法処置を講じた事もあり、元老院議員に強い反感を買い、結局暗殺されてしまいます。


「ブルートゥス、おまえもか」で有名な、シーザー暗殺。

しかしその政治手法が、後継者「アウグストス」によって体系化され。冒頭でも取り上げた、いわゆる「皇帝制度」として整備され。
いよいよローマは、「帝政ローマ」の道を歩み始めます。

いわゆる「ローマ帝国」の誕生です。

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帝政に移行した以後も、ローマは拡大を続け。ハドリアヌス帝・トラヤヌス帝時代に「最大版図」を築き。
五賢帝という、優秀な五人の皇帝の後。軍人皇帝時代に入ってしまい。

多くの「自称皇帝」が乱立し。ローマは内戦状態に陥ります。

これを収めたのがデオクレティアヌス帝で。
内戦により疲弊した経済を打開すべく、帝都をローマからコンスタンチノープルへ遷都したのが。その後の「コンスタンティヌス帝」です。


現在トルコ共和国首都イスタンブル(PS.失礼アンカラですね。恥ずかしい。)となっている、東ローマ帝国首都「コンスタンティノープル」。

バルカン半島の東端に突き出た半島で、これの先端部を丸ごと都市化した、典型的な「都市国家」。
冬の地中海の嵐は半端でないのですが、周囲の海が深く、港の安全性が高い。

陸側には「二重城壁が設けられ、難攻不落を誇り。
またボスポラス海峡の流れは速く、海側から攻撃も困難だった。

オリエント、西ヨーロッパ、エジプトのど真ん中に位置し。経済活動の要所でもありました。

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このコンスタンティヌス帝が、有名な。キリスト教を認める「ミラノ勅令」を発動し。

その後の「テオドシウス帝」によって、いよいよローマ帝国の「国教」がキリスト教となります。

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後世のキリスト教信者にとって「ミラノ勅令」とは・・・。
キリスト教史上最大級の躍進事ですし。現代世界においても、ミラノ勅令が最も有名な事件に変わりありません。

しかし、実は本当に重要なのは、その後のテオドシウス帝の「キリスト教国教化令」です。

ミラノ勅令の時点では単に、「キリスト教禁止令」が解かれただけだったのですが。
テオドシウス帝により、逆に、「キリスト教以外が全て禁止」になったのです。

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X. 急速に勃興する新興宗教の前に、暗雲たちこめるローマ帝国。

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前記したようにローマは・・・。

征服した地域の住民を、併呑する法制度を執ったため。

ローマ市民の人口も、被征服地住民を内包しながら増加させていきましたが。

実はローマは、「文化面」においても同じような志向を持っており。

征服した土地の神の信仰を容認したり、征服地の様式・衣食など含む。

文化をも「融合」させながら拡大してきました。

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↑ 左:エジプト太陽神「ラー」と「トート」。 右:ギリシャ神話「ヴィーナス(アフロディテ)」。
アフロディーテが、良いなぁ。 ドール「おやめ」 作者「おや、いたのね」。

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しかしキリスト教が国教化された事により・・・。

パンテオンに代表されるように。ギリシャ神話やエジプトの信仰など、さまざまな宗教・文化を内包していったローマ帝国が。
今まさに、文化面で「排他主義」に変貌したのです。

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神経質な内容のため、少し背景に触れます。
あくまで「是非」を論じているのでは無い事のみご理解下さい。

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ミュージカル「ジーザスクライスト・スーパースター」にもあるように。
イェルサレムを占領したローマ帝国。そしてローマの総督がイエスを処刑する訳ですが。

考えてもみれば、ローマ帝国はこの時点では。被征服地の信仰を禁止していませんでした。

なのになぜ。イエスは殺され、キリスト教信者はその後、迫害を受け続けたのでしょうか?


↑ 制作費 1500万ドル 映画「ベン・ハー」。物凄いスケール。二度とこんな凄い映画、作れないでしょうね。
ムチで打たれ、自らがはり付けられる処刑台(「十字架」ではない)を担がされ、ひきまわされる「イエス・キリスト」。

ちなみに・・・。「ベンハー」とは主人公「ジュダ・ベンハー」の名前。
ベブライ語と英語では「Y」と「J」がひっくり返るので、英語読みでは「ユダ・ベンハー」。

「えっ!ユダって、キリストを裏切ったユダ?」。実はユダヤ人には「ユダ」という人がイッパイいて。
イエスの弟子の中にも2人いて、裏切ったのは「イスカリオテ」です。

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カギはそもそも、イエスが殺された事にあります。

現代世界に生きる私たちにとっては、とかく「忘れがち」ですが。

考えてもみれば当然ですが、「キリスト教」というものそのものは。イエスの弟子たち。

つまり、いわゆる「十二使途」によって編纂・体系化された物であって。

大工の息子「イエス・キリスト」自身は・・・。

改革を唱える、紛れも無い「ユダヤ教信者」だったのです。

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余談として。
「そんな、イエスはキリスト教の開祖にして、三位一体説によって整合された「神」ご自身ではないか」。

ユダヤ教を改革しようとしていたイエスが。自らが神になろうとしていたのか?。
別の言い方をすれば「別の宗教を開こうとしていたか否か」は、今となっては解りません。
なので判断は皆さんに委ねるとして。参考としてイエスの生涯を象徴する、いわゆる「最後の七日間」を紹介します。

日曜日、「王」としてイェルサレムに入城し。宗教改革運動がユダヤ教祭祀に、また「王」となった事がローマ帝国に強い反感をかいます。

月曜日、イェルサレムの神殿で(禁止されていた)商売を行っていた者共を追い出します。

火曜日、イェルサレムを出て、オリーブの丘で弟子たちにおしえます。

木曜日、弟子たちを集め晩餐(最後の晩餐)を開きます(水曜日の記述は無く、故に「休む日」として認識されています。)。

金曜日(いわゆる13日の金曜日)、ローマ帝国総督により処刑されます。

安息日と日曜復活に関しては、既にこの時点で「神技」なので割愛します。

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以上から。判断はその後二千年の月日の中で、いまなお議論され続けています。

色々な解釈がなされ。激しい論争が起こった事が、後の「キリスト教宗派」の発生原因と言っても良いでしょう。

また一方でこの、「解釈の違い」が。後の「異端」の発生につながってゆきます。

ちなみにこのような白熱の議論が発生した原因は、根本的には「人間であるイエス」を。

どうやって神(ヤーベ神)と同列に置くか?につきます。

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映画「ゴッド・ファーザー」より。息子にバプティマスを受けさせるマイケル。

「「父」と「子」と「聖霊」の名において」。キリスト教でよく聞くセリフですが、これは「三位一体説」と言って。
この三者は一体の「神」であるという説。

「父」が神(ヤハゥエ)、「子」がイエス、「聖霊」が「み使い」。
ちなみに神が最初にお造りになったのが「み使い」なのですが、み使いの中の一人が神を裏切り、「サタン」となった。

マフィアはイタリアなので、当然ラテンカトリック。
今もそうかも知れないけど。中世では司祭は、「ラテン語」で神事を行った。

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こうして始まった新約聖書の「解釈論争」は。

聖書の「一言一言」を拡大解釈し、意に沿わぬものを排除するための道具として使われるようになり。

「異端」の名の下に、加速的に排他的性格を強めてゆく事となりました・・・。

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Y. 膨張するキリスト教徒の前に、なす術を無くしたローマ帝国。

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ゆえに。
ローマの総督が処刑したのはキリスト教信者ではなく、「この時点では」ユダヤ教だったと帰結します。

何故ならローマは、新興宗教を禁止していませんでしたし。

故にローマ目線からすれば、この時点ではイエスは単なる「一ユダヤ教信者」に過ぎなかったわけですから。

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迫害が始まった原因については、歴史家によって様々な見解がありますが起こった事象だけを追ってみれば・・・。
平穏な時代に、決定的に終止符を打ったのが。いわゆる「ユダヤ戦争」です。

ローマ帝国は冒頭でも述べたように、敵国であっても「皆殺し」「完全破壊」はしませんでした。
しかしこのユダヤ戦争では、徹底的な破壊がなされ。居留地を失ったユダヤ人はこの後千年以上。

「国無き民族」として世界に四散する事となってしまったのです。

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「嘆きの壁」。ダビデ王・ソロモン王などの絶頂期に造られた城壁。
ユダヤ戦争により四散したイスラエルの民が、失った聖地を今なお嘆く。

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キリスト教はその後。ご存知の通り、旧約聖書から、「神との新しい契約」。
つまり新約聖書に編纂され、いわゆる「イスラエル」へとなる訳ですが。

戦争したユダヤ人はともかく、ではキリスト教徒の迫害は?となると。

「キリスト教が来世信仰だから」とか、「ローマ大火の犯人がキリスト教徒だから」とか。
これもやはり諸説存在する訳ですが。

ローマからの目線に転ずれば。
「キリスト教は一神教だから」等という特別意識から迫害したのではなく。

ユダヤ戦争が起こった事。(ローマ帝国にとっての敵対勢力となった)
この事が、「国家として」キリスト教弾圧を制度化した、直接的原因だった事は間違いないでしょう。

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つまり。
この戦いにキリスト教は関係ありませんでしたが。

ローマ目線からすれば。「キリスト教は関係無くとも、同じユダヤ人の開いた宗教」という感情は残ったと考える方が自然。
と、帰結します。

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もちろん。

このように、最大原因は戦争にあるかも知れませんが。

忘れてはならないのは。
「ローマ帝国」とは、膨大な数の民族を内包する超多民族国家であり。

「一つの神を信じ、なおかつ他の神を認めない」という一神教の持つ「排他精神」に対して。

そもそもそローマ市民が肯定的になろう筈も無いことを、付け加えましょう。

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Z. 東西ローマ帝国の趨勢。

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宗教がらみの事象をこれくらいにして。再び歴史に戻しましょう。

内戦による旧都ローマの衰退から、コンスタンチノープル遷都。

そして東西分裂の辺りからです。

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コンスタンティノープルに遷都を果し、キリスト教の国教化に踏み切ったローマ帝国。

少しさかのぼって紹介すると、軍人皇帝による内戦を制圧する手段として。

ディオクレティアヌス帝はテトラルキアと呼ばれる。
広大な版図を四人の正・副皇帝によって統治する「四分統治」を制度化していました。

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しかしいざ首都が遷都されると。
ロシアやシリア・パレスチナとの貿易。スラヴや北方からの奴隷調達等等。活気あふれる新都コンスタンティノープルに対し。

旧都ローマは、急速に荒廃の色を濃くして行きます。

ちなみに強大なローマ帝国を支えたのは、まさに農業ですが。
この農業政策が、西ローマでは「破綻」してしまったのです。

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余談ですが、ローマ帝国の分裂は395年と有名ですし、作者自身もほとんど年号を覚えていないのに、コレは覚えています。
しかし今調べてみると、この大事件は、実は「劇的」に分裂した訳ではなく。

「いつの間にか、実質的には「別の国」になってしまった。」という状態なのだそうです。

そして、「この辺が分裂かな?」という事象が、テオドシウス帝の息子兄弟への世襲。395年と言う事で。
テオドシウス帝は、息子に正副皇帝を任命したのに。つまり四分統治制度の延長線上で、なんとなーく政治的統一性が無くなってしまった。

と言うのが、事の顛末なのだそうです。(平たく言えば、兄弟仲が悪かったのが分裂の原因。)

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分裂後すぐに西ローマは衰退を始め。帝国領は縮小し、もと西ローマ領地には。
進入してきたゲルマン人が、大小さまざまな王国や村々を作っていった。

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当時の人々は東西分裂後も当然、「自分の国こそがローマだ」と思っていたので。「ビザンツ帝国」等という言葉はありませんでしたし。
東・西ローマ等とも呼ばず、自国のことを単に「ローマ帝国」と呼んでいました。

そしてこの、コンスタンティノープルを首都とする。東ローマ帝国が、後に「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになる訳です。

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[. 長い歴史の中で、断続的に騎馬民族の侵攻にされされるヨーロッパ。

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中国から火薬がもたらされるのはずっと後の事なので。この時代は、依然「弓矢」の影響が大きいのですが。

中央アジアの遊牧民の中に、弓を作る技術に革命をもたらした部族が登場しました。

そしてこの遊牧民は、元々持っていた騎馬民族ゆえの機動性と、この強力な弓矢を携え。

今のドイツを通って、度々西ローマ帝国領を侵すようになました。

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余談として。
メルカトール地図のイメージで考えると、中央アジアから西進するなら。
西ローマではなく、東ローマの方が近いように思いがちですが。地球は丸いので。やはりドイツ経由でとなるようです。

実際ドイツ地は、長い歴史の中で度々アジアからの西進にされされるわけですが。

この時は。
これに押されるかたちでゲルマン人(ドイツの辺りに住んでいた原住民族)は「西へ移動」し始めます。
いわゆる「ゲルマン人の大移動」の始まりです。

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一方。西ローマ帝国でも遊牧民に対抗するため、ゲルマン人を傭兵として雇い続けますが。

度々帝国領を侵した遊牧民も、その主導者「アッテラ」の死により勢力を弱め。
かろうじて西ローマ帝国は、崩壊を免れますが・・・。遊牧民の占領は防いだものの。結果的に・・・。

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傭兵として雇った「大量のゲルマン人」が、各地で蜂起した上。

その後もゲルマン人の流入が続き、五世紀末。西ローマ帝国は滅亡してしまいました。

↑ 左から、マクベス王、ハムレット王、リア王。

いずれも16世紀に、ご存知シェークスピアによって創作されたキャラクターですが。
勇猛果敢なゲルマン人国王の姿を傍証している。

ゲルマン人たちは悪く言えば、好戦的民族ではあるが。
キリスト教を信じていたという点で、戦争が「聖戦」という。後付の勲章的価値観が加えられていきました。

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少しさかのぼって紹介します。
分裂したのが四世紀末で、西ローマ滅亡が五世紀末なので。この間の約百年です。

前記通り、西ローマはこの百年で、「衰亡への道」をまっしぐらに転がり落ちて行っただけですが。
一方のビザンツ帝国では、この時期、特に文化面で大きな変化が生じます。

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もともと統一ローマ時代の人たちはギリシャに対して、確かに大きな影響を受けたものの。
「征服国」以上の感情は持っていなかったと思われます(持論です)。

何故ならローマは、カルタゴやエジプト。後にはササーン朝等の影響を受けており。
「ギリシャだけを特別視」する向きは無かったからです。

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ところがビザンツ帝国は、まぁ言わば「ローマ文明の母」たるギリシャに、地理的に近かった事もあり。
分裂後「急速にギリシャ文化を取り入れる」ようになって行きます。いわゆる「ギリシャ化」という現象です。

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一般的には、七世に公用語がギリシャ語になった辺りをギリシャ化とされていますが。
これは行政組織の言語が変わった年代で。

実は六世紀時点で既に、コンスタンティノープル市民の間では、普通にギリシャ語が話されていたし。

いつ頃から市民レベルでのギリシャ化が始まっていたかは分りませんが。
六世紀以前から実質的に「ギリシャ化」は始まっていた筈なので、「この時代(五世紀)」を前提としています。

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← 日本ではあまり知られていない、正教。
   の、もっと知名度の低い、正教の十字架(八端十字架)。
   これは持論ですが、十字架を切るときの左右逆転は、これが原因では?。

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ちなみにこれが。
当サイト「世界の宗教構造」で記した、「正教(ギリシャ正教)」誕生のきっかけとなりますので。
文化面(宗教面)に関しましてはこちらで。

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\. なす術なし!。かつて無い強大な敵「アラブ・イスラーム帝国」。

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ビザンツとゲルマン人諸国家は。これ以後も、言わば「ライバル」としてあり続けますが。

七世紀に入ると、ビザンツとゲルマン人の共通の。しかもかつて無い「強大な敵」が現れます。

イスラム帝国の出現です。

突如現れたこの強大な敵に、ビザンツ・ゲルマンは共に「なすすべ無く」。

イスラム勢力に接していたビザンツ帝国の艦隊が大敗北を喫したのを皮切りに。

環地中海地域は、次々とイスラム勢力の支配下に落ちてゆきます。

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スペインは後ウマイヤ朝支配下に落ち。
キプロス島、ロードス島、サルジニア島、バレアレス諸島、そしてシチリア島までもがイスラム勢力に塗り替えられ。
ほぼ完全に、地中海はイスラム一色となってしまいました。

← 当時を彷彿とする、復元されたガレー船の艦隊。
   七世紀、ビザンツ皇帝コンスタンス2世の艦隊がイスラム勢力に大敗北を喫します。

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ビザンツ帝国は縮小しながらも、北方のスラヴ諸民族との貿易を続け。金貨も発行し。

更にはビザンツ系諸都市、ベネチィア・ジェノヴァ・ランゴバルド系諸国家等も。
こちらはいわば敵国、イスラム勢力とも取引を行い、かろうじて「勢力維持」を続けましたが。

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この時期、悲惨だったのは。もと西ローマ領に点在したゲルマン人諸国家でした。

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フランク王国、ゴート王国、オドアケルの王国。そして北欧ノルマン人。
これら、今で言う西ヨーロッパの状況は悲惨を極めました。

イスラム勢力に海上交易圏を奪われ、更にはゲルマン人同士の戦乱が絶えず。陸上交易も寸断し。

「金」が市場から姿を消し、耕作地は荒れ果て。

この頃の西ヨーロッパの麦は、「収量倍率が二倍程度」まで激減していた事が分っています。

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ゲルマン人諸国

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ゴート王国 ・ フランク王国 ・ ブルグンド族 ・ ノルマン人 

ヴァンダル族 ・ アングロ=サクソン族 ・ ランゴバルド王国・・・。

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西ローマを滅ぼしたゲルマン人たちは、

大小さまざまな「国」「街」「集落」を造ってゆきます。

その様はまさに「百花繚乱」でした。


↑ 後の「フランス」となるフランク王国。
五歳でその王位に就いたクロヴィス二世。

映画「覇王伝アッテラ」より。テオドリック。

ドイツの物語にも登場する伝説の王。
東ゴート王「テオドリック」。

「ゴート文字」の刻まれる、ご存知、
ルパン三世「カリオストロの城」の指輪。

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文字通り「明日食べるものも事欠く状況」で、略奪目的の戦争を繰り返す状態を続け。

しかも追い討ちをかけるように。九世紀に入ると、ヴァイキングの襲撃も深刻になり。

このヴァイキングの襲撃により、当時存在したほとんどの王国が「壊滅的打撃」を被ってしまったのです。

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西ヨーロッパではゲルマン人諸王国が、覇を争い。結果として、「陸上交易」「海上交易」ともに寸断されてしまい。

交易活動が停止し。悪い言い方、まるで原始人のような「自給自足」で細々と食い繋いでゆく状態に陥りました。

ローマ法が誇った法治体制も崩壊し、生存を目的とした「略奪」「海賊行為」が横行し。

トマス・ホッブスの提唱した「自然状態」に立ち返ってしまったのです。

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異論はありますが、この西ヨーロッパの悲惨な時代を、一般的には「暗黒の時代」と呼びます。

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]. 奪還作戦開始!。聖戦と位置づけられるイスラムに対する十字軍の実態は?・・・。

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七世紀から始まったこの、ビザンツ・ゲルマン・イスラムの激しい勢力争いは。

「収束」には程遠いものの。十世紀頃からは、いわば「定立状態」へと移行し。

地域的紛争は絶えないし、交易秩序は依然不安定だったものの。

「大混乱期」からは、ようやく抜け出しました。

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アッバース革命後、アラブ帝国崩壊に伴い、イスラム勢力は。後ウマイヤ朝、ファーティマ朝、イドリュース朝等に分裂し。
時間の流れと共に更に細かく分裂してゆくわけですが。

興味深い事に、イスラム勢力場合。覇権争いにより、交易が寸断された西ヨーロッパと異なり。
各王朝の領土をまたいでの、ワールドワイドな「ネットワーク」が持続しており。

結果的に、都市は繁栄し、「バグダード」、「カイロ」、「マフディーヤ」、「フェズ」、「コルドバ」と言った。
現代世界の世界地図に直接つながるような、都市文明を発展させました。

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アラブ = イスラーム帝国。

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地中海制海権、アフリカ北岸、そしてオリエント全域を支配したアラブ帝国は。
五代目カリフの擁立をめぐって分裂し。

西ヨーロッパのゲルマン人諸国同様に。各王朝同士で覇権争いを繰り返すようになります。

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← 元々はササーン朝の物語とは、当サイト作者自身知りませんでしたが。
  イスラム世界の物語の中で、日本では最も有名な物語。「 千夜一夜物語 」。

  人間不信に陥った国王が、夜な夜な街の美女を後宮に招いては「殺す」という・・・・。
  豊かで洗練されたイスラーム各王国の様子を、今に伝える大変に「興味深い」物語。

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ウマイヤ朝・ファーティマ朝・イドリュース朝・サーマーン朝・ガズニィ朝・セルジューク朝・オスマーン朝・・・・。

乱立する各王朝はゲルマン人同様、まさに百花繚乱の様相を呈してゆきますが。

アッバース革命が沈静化すると、各都市間の交易が盛んになり。バグダード、カイロ、マフディーヤ、フェズ、コルドバといった。

ゲルマン人諸都市とは比べ物にならない、大変に豊かな大都市が形成されてゆきました。

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一方のゲルマン人諸国家とビザンツ帝国では・・・。

定立状態により交易活動が、少しずつ回復しはじめ。まずはビザンツが国力を取り戻し。
十一世紀頃からは、西ヨーロッパでも急激に経済が回復し始めました。

「ルネサンス」というと、ジェノヴァ・ヴェネチア等の。いわゆる「イタリア・ルネサンス」を思い浮かべますが。
それより少し前から、西ヨーロッパでも経済が回復し始めていたのです。

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そしていよいよ、十世紀頃から。
キリスト教勢力による、イスラム勢力領地への「奪還作戦」が始まります。

ビザンツと西ヨーロッパの、いわゆるキリスト教勢力は依然ライバル関係にあり。正確には「共同戦線」では無いのですが。
十世紀から十一世紀にかけては、ビザンツと西ヨーロッパが。まるで「呼応」するかのように。

次々にイスラム勢力を攻撃し、地中海の制海権を奪還していったのです。

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ビザンツ自らが、キプロス島、クレタ島。ビザンツ系都市ピサ・ジェノヴァ等がコルシカ島、サルジニア島を奪還。
そして、もともと北欧に住んでいたバイキング。フランス北部のノルマン人が、シチリア島、マルタ島を奪還し。

ほぼ。
地中海制海権が、ビザンツ・西ヨーロッパのキリスト教勢力に戻ったわけです。

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この。
ノルマン人のシチリア島占領が、当サイト「セイレーン」に登場する。
シチリア伯ロゲリウス一世で。その家臣団の名前が「ファミリアーレス・レギス」。王国最高顧問団です。ちなみに。

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ノルマン = シチリア王国。

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北欧ヴァイキングが、フランス北部ノルマンディー地方に定住した後。イタリア南部の内紛に乗じて打ち建てられた、ノルマン人の王国。

同じくノルマン人の侵略によって起きたイングランド王国と異なり。侵略ではなく、当時のイタリア南部の住人。

即ち、ランゴバルド系ビザンツ勢力と、シチリア島イスラム勢力。

そしてラテン系ノルマン人を包括的に成立した多民族国家。

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このページでは「共和制」をクローズアップしていますが、その意味ではこのノルマンシチリア王国は、極めて「共和的」。

真の意味での「共和制国家」を樹立した、この時代では稀有な存在で。

これは大げさではなく、人類史上の希少な存在ともいえる王国。

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この国の家臣団、ファミリアーレス・レギス、王国最高顧問団とは?。

軍事目的の「騎士団」でもなく、宗教関連の「聖界諸侯」とも違う。明らかな「行政執行集団」であり。

立法府としての議会(元老院)議員と異なり。「執行府」としての組織をこれ程充実させた国家は、これまた人類史上初めての国家と言える。

後の西ヨーロッパ諸国の、「官僚組織」形成の「手本」となった。

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]T. ローマの歴史からチョッと外れて・・・。

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この十一世紀末。
この時代をもって、東西ヨーロッパとオリエントの「枠組み」は。現代とほぼ同じ状態に落ち着いたと言えるでしょう。

大枠をご紹介すると(もっと細かく分類されますが、あくまで「大枠」で。)。

東からスラヴ系。ロシアのキエフ公国、ポーランド王国、ハンガリー王国、ビザンツ帝国。

北欧ノルマン人の、スウェーデン王国、ノルウェー王国、ベオウルフ王・ハムレット王等で有名なデンマーク王国。

元カロリング朝系の、ドイツ王神聖ローマ帝国、フランス王国。

ノルマン人の被征服地、フランス北部ノルマンディー地方とイングランドを併せた、いわゆる「イングランド王国」。

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イスラム勢力も。

この頃にはインドのイスラム化も始まっていたし、イラクはもちろん。トルコもセルジューク朝に移行し、後のオスマーン帝国の礎を固め。
アフリカ北岸、カイロ、マフディーヤ、フェズ、モロッコ等等。

スペイン地のみがいわゆるレコンキスタと呼ばれる、勢力争いを続けていたものの。
およそ、現代世界と同じ状態を形成しつつあったと言えるでしょう。

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最後にこの後の大きな変化を、ザッとご紹介しますと。

アジアではモンゴル帝国が勃興し、中国からトルコ、果てはバルト海にまで到達し。分裂した後。

都市や文明的な影響は少なかったものの、文化的影響を各地に残し。
東欧の騎馬民族、トルコのルーム・セルジューク朝、中国の元朝出現等などを引き起こしました。

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西欧では、この後説明する十字軍がらみ。
それから「ジェノヴァ」「ヴェネチア」の覇権争いを経て、大航海時代を迎えます。

ちなみに ジェノヴァ VS ヴェネチア の戦いは興味深い事に、「帆船」対「ガレー船」の戦いでもあり。

キオッチャの戦いで勝利したジェノヴァ共和国は、その後コロンブスを輩出し、帆船をきって大西洋へ乗り出し。
地中海の伝統、ガレー船を駆って敗北したヴェネチアはイタリア王国の一都市として落ち着き。

ガレー船の時代を終わらせました。

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また、フランス北部ノルマンディー人によって打ち建てられた「イングランド王国」は。

ジャンヌダークの活躍で有名な、フランス「ヴァロワ朝」の勃興により、ノルマンディ地方の領土を失いますが。
エリザベス1世治世時代から急速に勢力を強め、スコットランドを併呑し、スペインを打ち破り。

大英帝国」の名の下。世界帝国の道を歩み始めます。

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こうして時代は中世から近世へ・・・。

ヨーロッパ人がこぞって世界へ乗り出し。植民地を作りつづけます。

そしてご存知、この理不尽な征服活動に民族主義の高まりが巻き起こり。

地獄の世界大戦への道を歩んでゆくわけです。

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]U. いよいよローマの最終章です。

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元ビザンツ勢力下ににあった、「ジェノヴァ」と「ヴェネチア」は。

十二世紀頃から、持っていた高度な操船技術を駆使し、地中海交易を拡大し。

果ては、お互いが地中海交易権の独占を狙って、激しく争うようになりました。

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ジェノヴァは西ヨーロッパの交易活動を独占し、ヴェネチアはビザンツ帝国から「免税特権」を得て。
東地中海の交易権を独占するようになっていったのです。

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十字軍とはもともと、ビザンツ帝国の要請を受け。
西ヨーロッパ諸国が、イスラム勢力からイェルサレムを奪還するため組織した。文字通りの共同戦線部隊でした。

しかし回を重ねるごとに、当初の目的は失われ。
「ほとんど盗賊」に等しい、暴力集団に変貌して行ったのはご承知の通りですが・・・。

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十三世紀、主にヴェネチアから派遣された、第四回十字軍は。
何を考えたのか、「ビザンツ帝国首都コンスタンティノープルを占領」してしまいます。

その後ビザンツは首都を奪還し、ビザンツ帝国を復活し。

モンゴル襲来をもかろうじて退けますが、十五世紀。とうとう。

モンゴル帰属のルーム・セルジューク朝後に起こった、大帝国。

オスマーン帝国によって1453年、滅ぼされます。

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分裂から数えても千年以上、建国からは実に二千年の存続期間を有するローマ。

確かにエジプトだって三千年以上続きましたが、これは古代世界ですし。
勢力争いの激しかったヨーロッパ地において、これほどの存続期間を持った事は、人類史上他に類を見ません。

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しかして。
滅亡した十五世紀には・・・。

十二世紀には中国より磁石が入ってきて、十三世紀にはコンパスが実用化され。
ジェノヴァでは巨大な帆船が造られるようになり。

十五世紀にはご存知、大航海時代も始まっていました。

つまり、古代世界から、常に「最先端を誇り続けたローマ」は。
この時既に「時代錯誤」に陥っていた感は否めず。

ある意味滅びるべくして滅びた。と言えるのでしょう。

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二千年の歴史を誇るローマ、ここに完結です。

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関連性について1 「神聖ローマ帝国」

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ゲルマン人がマジャール人(今のハンガリー人・ルーマニア人など)に勝った事により、「ドイツ民族」としての民族意識が高まり。
「国家」として建国されぬまま、なんとなーくこの地域の主導者(「ドイツ王」)が「皇帝」と呼ばれるようになった。

「呼ばれるようになった」とはつまり、後の歴史家により13世紀頃からのドイツ地を、こう呼ぶようになったという事です。

随分曖昧な表現ですが、実際の「歴史認識」も本当に曖昧で。日本では「オットー1世」が初代皇帝とされているのに。
地元ドイツではフランス王国カロリング朝皇帝、「シャルルマーニュ(カール大帝)」が建国者とされています。

ちなみにフランスでは、このシャルルマーニュこそフランスの建国者とされています。
これじゃあ起きて当然ですよね、戦争が・・・。

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関連性について2 「ラテン帝国」

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上記にもある「十字軍」が、コンスタンティノープルを占領したとき、この地に築いた帝国。

西ヨーロッパの人々は、「西ヨーロッパこそ正統な「ローマ帝国」だ」という意識が強く。
繁栄を高め、国力がビザンツ帝国を追い越した頃。

かねてより、「正教」を異端としてみなしていた意識から。「本来のキリスト教(ラテンカトリック)に戻れ」という趣旨で成立した帝国。

つまりラテン・カトリック信徒のオウン・ビジネス。余計なお世話。

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関連性について3 「ついでに」

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ノルマン人が、ブリテン島やシチリア島、マルタ島等で活躍し。
最後には国王として成功する、いわゆる「ノルマン人冒険物語」は有名ですが。

日本のゲームで有名な「ロードス島戦記」は、上記イスラム帝国に占領されたロードス島とは無関係だそうです。
もちろん「ゲド戦記」も純粋な物語です。

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]V. 最後に・・・。「血統」、「種族」、「民族」とは?。

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当サイトでは、サードシーズンに入ってから特に。
「セイレーン」や「趣味の融合」ページを中心に、スラヴ民族を取り上げていますが。

そもそもこの「スラヴ民族」という呼び方について触れて、終わりにしましょう。

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「血統」等という分類は、交流の激しかったヨーロッパにおいて、ほとんど意味がありません。

生物の遺伝子はデジタル信号であり、「優性」「劣性」遺伝は完全に分化していて、中間は無いのですが。
人類の大別は「ニグロイド(黒色)」「コーカソイド(白色)」「モンゴロイド(黄色)」に大別され。

この三大分類でさえ、「生物種」の分類上極めて小さな枠組みであり。分けて考えるのはナンセンスであり。
実際、例えば、黒人と黄色人種でも。何ら問題なく結婚もできますし、子を生むことも可能である事も、皆さんご存知の通りですね。

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この三大枠組みでさえ、分けて考える必要が無いのに。

それより「細かい事」を分類する事。
例えば「少し黒い」とか、「鼻が高い」とか、「この骨格がアーリア人種だ」等などを区別するのは。その必要性が無いどころか。

「アーリア人とは・・・」等と研究する事自身が「おぞましく」。

不毛の議論である事は自明の理でしょう。

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とは言え、遺伝子の研究が存在しなかった、古代世界から中世末期までの人類にとって。
こうした、今でこそ不毛とも言える「人種差別」が、本気で信じられていたのは仕方の無い部分が否めず。

実際、例えば自身の先祖たるアーリア人の直系、インド人を。
色が黒いので、「黒人」として扱っていた事実は有名ですね。

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人権主義の無かった昔の人間が、外観の「小さな違い」を差異化するのは当然の行いであり。
無論、日本にもありました。「おかめ(能面)」顔や、これも差別用語に属する蝦夷地の白肌などで。
作者より皆さんの方が、よくご存知かも知れませんね。

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こうした、人間の持つ「趣向性」の部分は。
「身体能力」や、「病原耐性」等と関係ない場合がほとんどで。

その点から言うと、こうした「外観上の差異感」は、人間の持つ「性的趣向」に直結していると言って過言で無いでしょう。

その点から考えるとヨーロッパには、大変に強い(外観的)趣向性があります。

いわゆる「青い目」と「金髪」です。

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共に色素の欠乏による、いわゆるアルビノ現象ですが。
ヨーロッパ人のそれは、数万分の一と言われるアルビノ発生確率を、ご覧の通り大きく上回っており。
(見た感じ、数人に一人って感じですよね)

これは明らかな「人為的淘汰」の結果。
つまり異性への性的趣向の結果が、もたらしたものである事が推測されています。

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そもそも外観で価値観を決定する事自身、人道主義に反しますが。

これ、つまり金髪・碧眼が激増したと思われるゲルマン人覇権争いの時代は。
いわゆる「暗黒の時代」とも呼ばれ。

その点、人道的見地から考えても暗黒の時代と言うのは。人類史の暗黒の時代だったと帰結できるでしょう。

平たく言えば、征服者は、被征服地域の「金髪・碧眼を所望」したわけです。
具体的には例えば、占領された住民は皆殺し。その中の、気に入った(外観)の女が連れ去られる。
という構図です・・・・。

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]W. 最後に・・・。「血統」、「種族」、「民族」とは?。2

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「 SLAVE 」(スレーヴ)という言葉(英語)をご存知でしょうか?

近年コンピュータでは、二台目以上のハードディスク・ドライブをサブディスクとして、スレーヴ設定する場合がありますが。

本当の意味は何と、「奴隷」です。

そしてこのスレーヴの語源が「スラヴ民族」の「スラヴ」なのです。

しかもこの語源の示す言葉どおりの意味、つまりスラヴ民族の地域とは、「奴隷の産地」という意味だったのです・・・。

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これほどの「不名誉」な語源を背負う民族は、現代に至るまでに「名誉挽回」の機会を得ている場合が多いのですが。

現代に直結する、近代に至ってもこのスラヴ地域はドイツ(オーストリア・ハンガリー)やイタリアによる支配を余儀なくされており。

汚名返上の機会を持ちえぬまま現代に至り。
スレーヴの持つ意味がそのまま残る結果となっています。

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もちろん現代社会の中で。
「あなたはラテン系だからオポチュニティですね」とか、「さすがスラヴ人、一時間の遅刻はあたりまえなのね。」等という会話は普通にされますし。
映画の中にも見られる、いわば日常です。

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ですが一方で例えば、戦後つい最近まで固有言語の使用を禁じられていた「チェコ人」なども存在し。
「過ぎ去った過去」の話とて片付けられない部分もある事を、わきまえなければならないでしょう。

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日本だって。

アジア諸国に対して行ってきた搾取は凄惨を極め。

アメリカに従属したからと言って、謝罪もせぬまま、たった数十年で「過去を水に流しましょう」というのは。

虫が良すぎるのかも、しれませんね・・・。

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